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『古代史ホツマツタヱの旅 第4巻』を読む [本]

第4巻.jpg『古代史ホツマツタヱの旅 第4巻』。第5巻から読み始めたのでこれが最後。目の前のやらねばならないことを山積させつつ、衝動に駆られるように全5巻に目を通した。

著者が訪ねる神社は、これまで聞いたことのない神社名が多い。サイトで調べるといずれも由緒正しい立派な神社ばかり。それらのことごとくが「ホツマツタヱ」に関連しあっている。否応なしに「ホツマの世界」が実感される。「ホツマツタヱ」が史実に即していることはもはや論議するまでもない。記紀こそが意図をもってしたつくりものであったと納得せざるをえない。

記紀それぞれのの意図は何かについての記述がある。仏教について詳細な日本書紀については、《古代氏族の最終的な勝者、藤原氏が、日本書紀に(彼らにとって)都合の良い話を盛り込んだのかもしれない》。一方、全く仏教にふれない古事記。仏教が入ってくる以前の歴史に筋道をつけることで当時台頭してきた豪族を、天皇の血筋にあえて(無理にでも)つなげていこうと行こうとする意図が見える》

もう一つ、天照大神が男神であったことを納得させられた大事な指摘。天照大神(アマテルカミ)が女性とされたことから、后のホノコさんの居所がなくなってしまったのです。女性のアマテルカミに后は必要ないからです。ホノコさんはアマテルカミが最も愛した后でした!今はこの大切なことが忘れ去られているのです。アマテルカミにとっても、ホノコさんにとっても、とても悲しいことなのです。》

全5巻を読み通して、何の迷いもなく「ホツマの世界」に没入できるようになっている。広い世界が開けている。

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《「あなにゑやうましおとめにあいぬとき」次にイサナミが、次の歌を歌いながら柱の右から回りました。「わなにやしうましをとこにあいぬとそ」イサナギが、「あ」から始まる歌を、イサナミは「わ」から始まる歌を歌っています。これを「天(アメ)のアワ歌」と言います。アワ歌とは次の四八声です。天の二四声『「あ」かはなまいきひにみうくふぬむえけへねめおこほの』地の二四音『もとろそよをてれせゑつるすゆんちりしヰたらさや「わ」』「あ」はアワ歌の最初の音声であり、「わ」はアワ歌の最後の音声です。天の最初の音声「あ」で始まり、地の最後の音声「わ」で終わるのが、「アワ歌」なのです。天のアワ歌では最初の「あ」と最後の「わ」が、歌の始めに使われているのです。古代人は人の声(音)をとても重視していたのです。古代人は、この宇宙には、対象(対照?)となるものが常に存在していることを感じとっていました。対象とは、陽があれば陰があり、明があれば暗がある、左があれば右があり、男がいれば女がいる、といったことです。古代人は、対象の存在があるからこそ、いろいろな事象が生まれると考えていたようです。また対象の中間にあるものも意識し、大切にしていたようです。》

《古事記、日本書紀では私達の祖先は、神の司令を受けて天から降りてきた(天孫降臨)、と言うことになっています。そのようなことはあり得ない話なので、天孫降臨は伝説(神話)と言うわけです。記紀には降臨の司令をした神と、司令を受けて降臨した神がいます。(次の天孫降臨の伝説図を参照)司令の目的は、瑞穂国・水穂国の統治ということです。一方ホツマツタエでは、アマテルカミがニニキネに、水田の開拓を指示し、それを受けてニニキネが、日本各地で灌漑(注)による水田開発を行っています。(第一巻九九から一〇四、一二一から一二三頁参照)この話が記紀では天孫降臨(神話)となっているのです。》

《古代史ホツマツタエの旅で、この国の歴史を知るようになってからというもの、しだいにこの国の歴史が非常に古いことが分かってきました。遺跡の調査報告から、日本人?としての最初の活動は、紀元前四万年前にまでさかのぼることができるのです。さらに石器の変遷をみると「旧石器時代(紀元前四万年から紀元前一万三千年)」と言われる時代においてすでに高度な石器を作る技術がありました。紀元前一万三千年から紀元前九千年は、「縄文時代草創期」と呼ばれていますが、この時代は、九州から東北にかけて土器が作られ、定住の様子が見られます。紀元前九千年以降、さらに文明が進化して行く過程を、土器・石器などから知ることができます。また日本の漆文化の源流は、紀元前七千年にあります。(四柳嘉章氏の研究)こうした過程を知ることで、古代史ホツマツタエが、国の始まりを紀元前四千年頃としていることに、不自然を感じなくなってくるのです。紀元前四千年頃は、文明が十分に発展していて、たとえ文字が存在していたとしても、なんら不思議なことではない、と思えるようになってきます。(関連、第一巻、考古学的に見る古代)》

《クニトコタチの時代は、縄文海進(第一巻一〇〇頁)といって、両極(北極・南極)の氷が溶け、海は今よりもずっと内陸に入りこんでいました。現在は三内丸山遺跡から海まで、三キロ以上の距離がありますが、この時代(紀元前三五〇〇年)には、海岸線は遺跡近くにありました。紀元前四〇〇〇年頃(縄文海進のピーク)の水面が最も高く、その後徐々に寒冷化に向かい、水面が下がっていったのです。紀元前二〇〇〇年頃はさらなる寒冷化となり、海が陸地から一層遠ざかっていきました。三内丸山における文明が、紀元前三五〇〇年から紀元前二〇〇〇年までの一五〇〇年間続いたと言うことは、この間の気候変動と大いに関連しています。三内丸山遺跡の時代は、日本列島の中でも東北がもっとも住みやすい地でした。紀元前二〇〇〇年以降、地球は寒冷化に向かいました。寒冷化は約一千年続きました。紀元前一〇〇〇年頃までです。その後は再び温暖化となりました。その時から稲の栽培が始まっているのです。紀元前二〇〇〇年以降、海が後退して、貝の採取がままならない(貝塚の消滅)状況になり、且つ気温が下がり、木の実栽培もできない状況になってきたため、人々は南下したのです。こうしてしだいに東北よりも南の地が栄えるようになっていったのです。でも三内丸山遺跡があった時代は、東北は極めて安定していました。その結果、高度な技術が蓄積されたのです。この蓄積された技術が、その後の日本の文明に大きく寄与したと考えることができるのです。クニトコタチとその子孫を中心に、人々は平和な生活を営んでいたのです。「この時代がなければ今の日本はない」と言ってよいかと思います。》

《国立歴史民族博物館の資料(注)には「この時代の食料採集民の文化としては、世界的にも例のないほどの高度な内容をもっていた」とあります。(注)縄文時代前期(紀元前五〇〇〇年から三五〇〇年)の関東以北(東北まで)の人口は推定四五〇〇〇人関東以南一七〇〇人(小山修三「縄文時代」より)。》

《古代には、三つのツボがありました。「ケタツボ」は多賀城付近に、「ハラミツボ」は富士山本宮浅間大社辺りに、「オキツボ」は、琵琶湖南西岸の日吉大社にある八王子山にありました。この三つのツボは、古代における都でした。ツボ(都)の南では、祭り事(政治)を、北側では、ツボ(都)を維持するための行いが、女性によって行われていたのです。「局(ツボネ)」は、ツボの北の意味です。(古代では、北をネと言っていました)多賀城の壺、すなわちケタツボは、とても古いものです。クニトコタチの御子、タノミコト(系図1参照)の都があったのではないか、と推定されるところですから、紀元前二千年頃、と思われます。タノミコトの子孫は、その後タカミムスビと名のり、何代も続きました。五代目タカミムスビが、アマテルカミの師、トヨケカミ(伊勢神宮外宮のご祭神、豊受神)です。またタノミコトの子孫には、アマテルカミの母、イサナミがいます。父のイサナギもタノミコトの子孫です。》

《高齢となったアマテルカミは、ウジ(今の伊勢神宮の内宮の地)において多くの人々を招かれ、教え導くようになりました。そしていよいよご自身の最期が近づいてきたことを悟ると、サルタヒコにホコラを造るようお命じになりました。トヨケカミと同様に、比沼麻奈為神社後方の山、久治岳において、生きたままホコラに入り、そこでお亡くなりになりました。(注)生前に、ホコラにお入りになり、そこでお亡くなりになるということは、自身のタマ(み霊)を宇宙の中心(アモト)に返さず、この世に、タマをとどめることを意味しています。後に、垂仁天皇の皇女(ひめみこ)ヤマトヒメによって、トヨケカミとアマテルカミのタマ(み霊)は、今の伊勢神宮(内宮にアマテルカミ、外宮にトヨケカミ)にうつされ、祭られました。(伊勢神宮のはじまり)》

《芭蕉が奥の細道と名付けた理由がだんだんわかってきました。芭蕉が曾良とともに探しもとめていた世界とは、失われたトヨケカミとアマテルカミの痕跡をみつけることにあったのではないか、と。それはまさに細い道でした。一本の糸を少しずつたどっていく旅でもありました。実は西行もこの痕跡をさがしていたのです。しかし彼らには手引書となる歴史書「ホツマツタエ」がありませんでした。このため、ただただ旅をして、歌を読みながら、鋭敏な感覚で古代に思いをはせていたのです。》

《芭蕉が訪れ、感動した壺の碑(つぼのいしぶみ)は、ここ多賀城にありました。そういう訳で、神皇正統記を記した北畠親房が、後醍醐天皇の皇子(義良親王)を奉じてたどりついた多賀城には、古代からの、とても大切な歴史が秘められていたのです。/もしかしたら、ホツマツタエを読み解くことにより「後醍醐天皇が目指した政治が、どのようなものなのか」推測できるのかもしれません。》

《古代における政治の体制は、ミヤコトリという鳥(カモメもしくはツバメ)に例えられました。このとき、鳥の頭がアマカミ(天皇)を、胴体は国民をあらわしていました。左右の羽は、ヒタリノオミ(後の左大臣)と、ミギノオミ(後の右大臣)をあらわしています。モノノヘ(後の武士)は、鳥の足に位置していました。アオヒトクサ(国民のことを青人草と言った)を、アマカミ(天皇)と左右の大臣、さらにはモノノヘを加えた体制で、守っていこうとする古代の考え方が、鳥に例えられていたのです。ヒタリノオミ(左大臣)は、鏡の精神(道徳的なこと)を、ミギノオミ(右大臣)は剣の精神(警察権)を司っていました。頂点(ミヤコトリの頭)となっているアマカミは、私ごとのない心(無私の精神)で、国民に尽くそうとしていたのでした。ミヤコトリの例えは、古代の指導者が、国民をいかに大切に考えていたかをあらわす素晴らしい例えです。さらにヒタリノオミには、ヒヨミノミヤ(暦つくりの宮)での役割もありました。ヒヨミノミヤは、暦をつくるとても大切な宮です。初代ヒヨミノミヤ長官はオモイカネ(ワカヒメの夫)です。》

《神皇正統記:「大日本は神国なり」という書き出しではじまる神皇正統記がもととなり、後(明治維新)に、皇国史観(注)が生まれたと言われています。(注)国家神道にもとづく歴史観。万世一系の現人神(あらひとがみ)である天皇が君臨する神国の歴史。親房がとらえていた天照大神(アマテルカミ)とは、このようなものです。「我々は、天照大神の御田(みた)の稲種と、天照大神から与えられた水とにより生かされているのであり、だからこそ我が国は、神国なのである」また、親房の著書「職原鈔(しょくげんしょう)」にはこのようなことが書かれています。「左右大臣は、神代のアマノコヤネ、フトタマのように皇孫をお助けするのが本来の任務であること。征夷大将軍は、天孫降臨の際におけるフツヌシ、タケミカツチのような態度で、天皇にまつろわざる者を平定していくのがその任務である」親房は、この国の(古代からの)本質を鋭くとらえ、新たな政治体制を考えていたのでしょう。しかし、律令国家の体制(七世紀半ばから平安初期まで続いた)が、果たしてアマテルカミの御心に即していたものかどうかは疑問の残るところです。/これは、アマテルカミがハタレの乱と言う国難に遭遇していた時の話です。軍議の席において、武人タケミカツチが「私の力で彼らをねじ伏せて見せましょう」と申し述べました。するとすこしお考えになってから、アマテルカミは、このようにお話になりました。「乱を起こしている人々は、稲穂の実りの恩恵にもあずかれない人々で、心がねじけているのです。彼らにはある意味で同情すべき一面もあるのです」このアマテルカミのお話を聞いた長老のカナサキが歌を詠みました。我もなしいつくし(慈)をもてかんかたち(神形)なかご素直にかんちから(神力)よく物知るはかんとほり(神通り)こと(言)なふ保つくしひるぞただ和(やわ)らぎを手だてなり「私達は、自分のよこしまな心を無くし、ただひたすらに人をいつくしみ、心を素直にして、正直に徹すれば、必ずや神に通じる力(神通力の謂れ)を得ることができるのです。やわらぎの心こそが、困難に立ち向かっているこの時に必要な、唯一の手段なのです」》

《吉田神道。さて、室町後期に生まれた吉田神道では、三種神器の精神とは「正直、清浄、慈悲」のことであると説いています。アマテルカミが伝えた精神は、儒教が伝わってから生まれた神道においてもかろうじて残っています。神道は、儒教の影響を受けて生まれた宗教であり、古代史ホツマツタエ(注)とは異なるものです。(注)古代史ホツマツタエは、五・七調で書かれたこの国の歴史書であり哲学書です。宗教書ではないのです。》

《ホツマツタエ系図2でアマノコヤネとフトタマの祖先を見ると、アマノコヤネの父ココトムスビはツワモノヌシの子であり、フトタマの父は、七代タカミムスビ・タカギで、祖父は六代タカミムスビ・ヤソキネ(カンミムスビともいう)ということが分かります。ツワモノヌシと六代タカミムスビ・ヤソキネは兄弟で、ツワモノヌシが、ヤソキネの兄になります。ツワモノヌシの子ココトムスビの本拠地は、今の奈良の春日大社辺り(ナカクニ)であり、七代タカミムスビ・タカギの本拠地はヒタカミ(今の東北)だったのです。この二つの系統が後に祭事の主導権争いをしたということです。という訳で、古語拾遺はこのこと(祭事の主導権争いがあったこと)を念頭に入れて読む必要があります。そもそも古語拾遺の文中に、漢字伝来以前には文字がなかった、と記されたために、その後の歴史で、このこと(漢字伝来以前には文字がなかったこと)が前提となり、古代には文字がなかった、と解釈されてきたわけです。しかしよく考えると、古語拾遺の編者、斎部広成と言う人は、祭事(神事)の争いで藤原(中臣)氏に敗れた人なのです。その彼が「祭事(神事)の主体は、本来、フトタマの子孫である我々(斎部氏)のほうにあるべきものである」と述べているのが、古語拾遺なのです。ですから古語拾遺は、かなり偏った(斎部氏側に偏った)本と思って読んだ方が良いかと思います。古語拾遺が撰上されたのは、大同二年(八〇七年)平城天皇の時代(平安時代)でした。漢字が伝来して五百年近くがたち、古代文字がすっかり失われてしまった時代でもあったのです。斎部広成は、自分の祖はフトタマであると述べていますが、それは、暗に自分はアマノコヤネの子孫藤原(中臣)氏ではない、ということを、意味しているのです。》

《インべ(斎部氏)は代々祭事を行ってきたのです。古語拾遺が撰上された八〇七年においても、祭事(神事)の斎部氏として生きながらえていたのです。このフトタマの子孫である斎部氏が、アマノコヤネの子孫、藤原(中臣)氏に、一族の祭事役を奪われたために、憤慨して平城天皇に古語拾遺を撰上したという訳です。フトタマ(斎部氏)とアマノコヤネ(藤原・中臣氏)の祖先は、トヨケカミであり、さらに物部氏(祖先ウマシマチ)の祖先もトヨケカミであります。このように伊勢神宮の外宮に祭られているトヨケカミは、多数の祭事を司る人々を子孫として輩出していました。また古代の日本では長期間にわたり、古代の出来事が因縁(神事争い)として残り、たびたび争いの火種になっていたことが分かります。》
《記紀が、古代の真実を神話にしてしまったことは、とても罪深いことです。祖先が天から来た(つまり祖先がどこから来たのかわからない)とされてしまっては、後の子孫は困ってしまいます。最も大切にしたいことは私達の祖先のことだからです。》

菅浦は、隠れ里とも言われ、昭和四六年までは陸路がなく、集落への交通手段は、舟で行くしかありませんでした。菅浦には、藤原仲麻呂に擁立された淳任天皇(七五八から七六四年)がお眠りになっているのです。淳任天皇は、平城京から都を遷そうと考えていました。唐の慣習にならった都、保良宮(ほらのみや)を造ろうしたのです。保良宮は、今は特定することができませんが、天智天皇の大津宮の近く、石山国分遺跡(大津市)ではないかと言われています。称徳天皇と道鏡との争いに敗れた藤原仲麻呂は、琵琶湖湖岸(高島)にて殺され、淳任天皇は、廃帝の身となって、淡路島に流されてしまいました。その後、幽閉先から脱出された淳任天皇でしたが、捕らえられ、その日にお亡くなりになりました。天皇のお伴をしていた人々が、菅浦にご遺体を運び、須賀神社(かつては保良神社と呼ばれていた)にお祀りしたのでした。菅浦のある奥琵琶湖は、神秘的な光景を保つとても美しい所です。・・・菅浦の住人は、淳仁天皇に仕えた人々の子孫と信じており、その誇りと警戒心が、他人をよせつけなかったのである。木地師には惟喬(これたか)親王が、吉野川上村には自天王が、そしてここには淡路の廃帝が、ひとつの信仰として生きているのはおもしろい。おもしろいといっては失礼に当るが、神を創造することが、日本のかくれ里のパターンであることに私は興味を持つ。淳任天皇の時代は、この国が中国化(唐文明の流入)されて行く中で、国内派と外国派が激しく権力闘争をした時代でした。その中で、よくも古代から続く神社が守られ、今日まで続いてきたものだ、と改めて思います。それは歴代の天皇が、古代の神々(実在した人達の魂)を大切に守ってきたからにほかならないのです。》

《もし藤原鎌足が古代文字ヲシテで書かれた書を残していたとするならば、ミカサフミ(古代文字ヲシテで書かれた政治哲学書)は、藤原氏が所蔵していた可能性が高まってくるのです。以前から藤原氏の栄華の源は、ミカサフミを学んでいたからだ、と予測していた(第三巻一八五頁)のですが、野々村さんからいただいた「神代神字辧」を読み、より強い確信を抱いたのです。》

《本殿の裏手にある、薬井戸(あらゆる病に効くと言われる)の名水をいただき、その後に、社務所で三輪山登山の申し込みをしました。登山の説明と注意事項を聞き、布製の三輪山参拝証をいただき、それを首にかけました。布の帯の先には小さな鈴が付いています。チリン、チリンと鈴の音を響かせながらの登山のはじまりです。三輪山の山中に、鈴の音が心地よく響きわたります。これからいよいよクシヒコにお会いできるかと思うと、身がひきしまり心の高鳴りを覚えます。参拝を終えて下山してくる人たちと、あいさつを交わしながら一歩一歩山道を登って行きました。登山は往復二時間程度のものですが、次第に勾配がきつくなり、運動不足の私達にとっては、かなりハードな山歩きでした。じつのところ、三輪山で見たことについては口外してはならない、とされていますので、とても残念なことですが、これ以上書くことができないのです。これは神様との約束ですから。でも下山の後で飲む薬井戸の水が、さらに格別な味になっていることは間違いありません。三輪山には、是非一度登っていただきたいと思います。頂上で見る奥津磐座(おきついわくら)の神聖な、そしてとても不思議な世界には、誰でもがおおきな感動を抱くことでしょう。》

ヤマトタケ(日本武尊)は、国の将来をとても案じていました。事実、ヤマトタケが崩御した後に(神功皇后の時代)朝鮮半島に軍をもって渡り、新羅、高麗、百済の王を服従させています。(第三巻一七五頁)ヤマトタケが遺書に託したことで国の歴史書がつくられました。それが「ホツマツタエ」であり「ミカサフミ」です。ヤマトタケと同じように、トヨトミミ(聖徳太子)もこの国の将来を案じていました。彼も国の歴史書をつくったのです。日本書紀には(六二〇年に)聖徳太子と蘇我馬子が協議して「天皇記」と「国記」「本記」を記録したと書かれています。これらは現存していませんが、日本書紀の編纂当時(七二〇年)には、現存していて、基礎資料になっていたはずです。一方、天皇記や国記の基礎資料となったのは、ホツマツタエと思われます。古代文字で書かれたホツマツタエを、漢字をあてはめながら天皇記、国記などは作られていったのでしょう。もしかしたらこの時に、アマテルカミ(天照大神)は、推古天皇(女性天皇)を正統化するために、女性にされてしまったのかもしれません。》

《不思議なことに、古事記には全く仏教のことが書かれていません。一方、日本書紀には、欽明天皇の時代(五五二年)に、仏教が伝わったと記されています。また古事記にはどういう訳か、トヨトミミ(聖徳太子)と仏教をつなぐ記述すらないのです。こうした点から(正史として認められていた日本書紀側から)見ると、古事記は全くの作り話になってしまいます。恐らく一千年もの間、古事記が日の目を見なかった(隠されていたためか?)のは、仏教を無視したことによる、と考えることもできるのです。また古事記には、崇峻天皇が蘇我馬子の腹心、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に殺されたという記述すらないのです。/一方、日本書紀には、仏教についてかなり詳細に書かれています。この古事記と日本書紀の記述の違いは一体何なのでしょうか?古事記の立場からすると、あまりにも仏教について詳しく書いてある日本書紀の方がおかしいのではないか?という疑問も生まれてきます。本当に蘇我氏は仏教をもってこの国を動かそうとしていたのでしょうか。もしかしたら古代氏族の最終的な勝者、藤原氏が、日本書紀に(彼らにとって)都合の良い話を盛り込んだのかもしれない、という角度から考えてみる必要もあるのではないでしょうか。日本書紀からは、蘇我氏と物部氏の間(のみ)で、仏教をめぐり対立した、かのような印象を受けますが、他の氏族の(仏教についての)考え方はあまり伝わってこないのです。日本書紀も古事記と同様に、ある意図をもって書かれているのでしょう。「藤原氏こそが最も仏教に関心があった氏族」のはずです。そのことは後の時代を見れば明確に分かることです。藤原氏の仏教への関心は藤原鎌足の時からです。》

古事記の真実:古事記にはなぜか人を引き付ける魅力があるのです。それは歴史書としてではなく、創作物語として作られているからなのでしょう。また古事記には、持統天皇の意思が込められているかのようにも思えます。仏教をもって台頭していこうとする藤原氏を意識しているかのようでもあります。古事記には多くの歌がのせられています。歌を愛した持統天皇の思いが、古事記には込められているかのようでもあります。これは持統天皇の歌(小倉百人一首)です。春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香久山 そもそも古事記の序文に、編纂の理由がのせられていること自体、作為を感じます。古事記には明らかに、梅澤伊勢三先生(注)の見解をお借りするまでもなく、当時の諸氏族をまとめ上げ、天皇中心の国家観を植え付けようとする意識が働いているのです。(注)創文社「記紀批判」梅澤伊勢三著 江戸時代に(本居宣長によって)古事記が見いだされたことで、その後の天皇中心の国家観が出来上がっていったのでしょう。(注)(注)古事記(三巻)にのる氏族の数は、二〇一、一方、日本書紀三〇巻に載る氏族数は一〇八です。古事記には、当時台頭してきた豪族を、天皇の血筋にあえて(無理にでも)つなげていこうと行こうとする意図が見えるのです。しかしこうしたことを理解したうえで古事記を読めば、また違う魅力が古事記にはあると思います。》

《記紀が天照大神を女性にしたために、アマテルカミの后、ホノコさんを祭る神社は、おかしなことになってしまいました。日本には、アマテルカミの后ホノコ(セオリツ姫ホノコ・瀬織津姫)さんを祭る神社は、五百社近くもあるそうです。(注)「天照大神・瀬織津姫の因幡行幸」大江幸久著、牧歌社より  ところが天照大神(アマテルカミ)が女性とされたことから、后のホノコさんの居所がなくなってしまったのです。女性のアマテルカミに后は必要ないからです。ホノコさんはアマテルカミが最も愛した后でした!今はこの大切なことが忘れ去られているのです。アマテルカミにとっても、ホノコさんにとっても、とても悲しいことなのです。》

《祭りの対象;ホツマツタエを理解していくと、時代がくだるにつれ、祭り(祀り)の対象が変わっていくことに気付くようになってきます。クニトコタチの頃は、宇宙の創造神、アメミヲヤと人類の祖、アメノミナカヌシが祭りの対象でした。トヨケカミの時代になると、天体観測が進み、北極星を中心とした宇宙そのものが、祭りの対象となりました。ところがヤマトタケの時代になると、祭りの対象に、祖先の人々が神々として加っています。伊吹山でヤマトタケがイフキヌシにたたられたと言う話からは、当時(二─三世紀)の人々が、先祖崇拝をとても大切にしていたことがうかがえるのです。》

《ヤマトタケ(日本武尊)がお亡くなりになった後に、歴史書として再編纂された書「ホツマツタエ」は、三輪氏(オオモノヌシの家系)の子孫に家宝として受け継がれました。しかしこれを再び世に出す機会は、江戸時代になるまでなかったのです。ホツマツタエ(ヤマトタケ)以降、この国は必死に中国の文明を導入しようと努めてきました。それは、国の防衛上からも必要なことだったと思います。そのお蔭で今日の日本があると言っても良いと思います。しかし、この「外国文明を吸収するという大きなエネルギー」を生み出したのは、まぎれもなく「私達が縄文人と言っている古代の人々の遺伝子」であった、と言えるでしょう。縄文時代に、すでに国家としての基礎が出来上がっていたのです。古代のアマカミ(天皇)を中心とした指導者達が、気高い心を持って国民を導いていたことが、ホツマツタエを読み進んでいくことでよく分かるのです。西行や芭蕉、和泉式部、空海、一遍上人らが探し求めていた世界(古代日本の本当の姿)に、触れることができるのは、ホツマツタエの世界でしかあり得ない、とつくづく思うこの頃です。平成二十二年六月二十四日》



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