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『古代史ホツマツタヱの旅 第3巻』を読む [本]

大きな時代の転換期をむかえている今、「世の中が変わる」とは、これまでなかった新しいものが出てくるということではない。歴史をひもとけば、新しい時代をひらくのはいつも「復古の精神」。「伝統」が大事なのは、そこに「本質」が潜んでいるから。今大事なのは「祓い」の気持ち。まとわりつくツミ、ケガレを祓い落とすことで、隠れていた「本質」が見えてくる。(馬渕睦夫「ついにこの時がきました。●●が終わりを迎えました」https://www.youtube.com/watch?v=c7XSHkzzinE
「本質」とは、途切れることのないものごとの根底にある流れ。内的必然性。《ホツマツタエの旅の魅力はいろいろありますが「記紀には触れられていないことが、旅の中でいろいろな形で現れ、それが一連の話としてつながっていくことへの面白さ」ということもあるのです。》
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《ホツマツタエの旅の魅力はいろいろありますが「記紀には触れられていないことが、旅の中でいろいろな形で現れ、それが一連の話としてつながっていくことへの面白さ」ということもあるのです。》
《ホツマツタエの旅を重ねていくうちに、神社の伝承が、次第に重要なものになってきました。小椋氏は以前よりそのことに気付いていたのです。彼は「出典も分からない曖昧な神社伝承にもとづいて(歴史を)立論することは砂上の楼閣に等しい」と言いながらも「現在なお(神社にて)語り伝えられているという厳然たる事実もこれまた否定することが出来ない」とも述べています。彼は、原田常治著「古代日本正史」や大熊規矩男の「神社之考古学」で、神社の伝承を取り上げていることを紹介し「かつては(神社伝承の研究は)民族学の一流派を形づくっていたのではないか」と述べています。/残念なことは、本来神社伝承の裏付けとなるべき古事記や日本書紀からではその答が見つからないということです。記紀の記述が異なっていることも、研究を一層難しくしています。ホツマツタエの旅をしていくうちに、多くの研究者が、神社伝承の重要性に気付きながらも、確信には至らなかった最大の理由は、ホツマツタエを知らなかったことにある、と思うようになったのです。ホツマツタエの記述と神社伝承を比較検討して行くことは、古代史の研究には欠かせないことです。》
《平成二一年三月二一日、私はK氏から送って頂いた本の中に、寒川神社のご祭神は四代アマカミのウビチニとその妻スビチニと思われるという記述があり、何気なくトヨクンヌ(三代アマカミ)の一族ではないかと予想していた(「寒川神社を考える」)こととが一致したのです。私はこのことを旅の中で(記事のことは知らずに)直感していたわけですが、こうしたことはホツマツタエの旅をしていて、時々出会う不思議な感覚の一つでもあるのです。神奈川県の大山周辺は古代史の中でも東北に匹敵するほどの古い歴史を持つ地であることを確認したのです。》

《平安時代は、まさに藤原氏が栄華を誇った時代といえますが、そのおおもとをたどって行きますと関東で生まれた武道に行きつきます。いつの時代においてもそうですが、国の政治を行うには、智略だけなく強い武力が必要です。藤原氏の祖先アマノコヤネには、古代に授けられた国を統治するための道ばかりでなく、妻(ヒトリヒメ)の血筋に、天より授けられた武道に優れた人がいたのです。ヒトリヒメの父は鹿島神宮のご祭神タケミカツチであり、タケミカツチの兄は香取神宮のご祭神フツヌシです。共にハタレの乱や出雲の国譲りで活躍した高い精神性を持った武将です。アマノコヤネの長けた政治力の背景には、政治に必要な智略と武力があったのです。平安時代における藤原氏の栄華のみなもとは、古代から連綿と続いてきた香取・鹿島の両神宮の力があったということがわかってくるのです。/蘇我氏が日本で仏教を最初に受け入れた氏族です。その後、氏族間で仏教をめぐり激しい争いがあったのです。蘇我氏は、神道派の物部氏や三輪氏を滅ぼすことに成功しましたが、その蘇我氏も藤原(中臣)氏らによって倒されてしまいます。さらに藤原氏は同族である大伴氏(いずれもアマノコヤネを始祖とする)を中央から追いやることに成功いたしますと、藤原氏独自の手法で、仏教中心の政治を行い、勝者の一族として、この国の歴史をきずいていったのです。しかしその藤原氏も一族の間で激しい争いがありました。藤原氏は四家(南家、北家、式家、京家)にわかれ、激しい一族間の争いを演じていくのです。また、蘇我氏に滅ぼされたはずの物部氏も後の時代に仏教を取り入れ、藤原氏と共にこの国をつくっていった様子が歴史の中からうかがい知ることが出来るのです。仏教はこの国の基礎をつくる上で、極めて重要な役割を果たしましたが、アマノコヤネを始祖とする藤原(中臣)氏は、神道に対しても篤い信仰心を持ち、両者が併存する形「神仏習合」で国づくりが行われていったことがわかります。》
《藤原鎌足の子、藤原不比等によって日本書紀は仕上げられたと思われますが、その後、藤原氏の子孫は様々なことを書に残し今に伝えています。平安時代以降の書を読む時に、その書が藤原氏によって記されたものかどうか、という判定をまず始めにしてみることも、歴史を学ぶ上で必要なことかもしれません。》
《筵(むしろ)の上に立ったアマノコヤネがアマテルカミのミコトノリ(勅)を読みあげました。「これからは私の代わりに、オシホミミが四季折々に民をいつくしみ、この国を治めるようにしてください。ヤサカニの勾玉を天の心に合わせようとすることにより、あなたの御心はまっすぐに保たれることでしょう。ヤタの鏡は左手に持って人々のサガ(性)を写し見て政治を行うようにしてください。ヤエガキの剣は供の者に預けておいてください。アラカミ(荒神)が現れたならば、勇気を持って恐れずにヤエガキの剣で平定してください。平定後は敵といえども恵みを与え、和するよう努めてください」こう読みあげた後に三種の神器をオシホミミに授けました。さらにミコトノリは続けられました。「この宝物(三種の神器)は私(アマテルカミ)と思ってください。チチヒメとは共に睦まじくミヤビ(他人の心を思いやること)をなすように心がけてください。また、フツヌシとタケミカツチを侍(はべ)りて、祭り事(神事と政治)を守るようにしてください」フツヌシとタケミカツチは、オシホミミに仕えました。》
《結婚という形が出来たのは四代アマカミ、ウビチニ、スビチニの時代でした。それ以前は、男女は結婚という形をとらずに交り合っていました。群婚といっても良いのかもしれません。水田が始まり農業が普及していくにつれ、男女が一つの家に入り互いに協力していく必要が出てきました。アマテルカミは、結婚の原則を決めることで、社会が安定すると考えました。これがイモヲセの道というものです。イモは妻ヲセは夫を意味しています。》
《アマノコヤネが「欲から離れることをスズカというのです」と述べた時のことでした。チチヒメが垂れより出てきて質問をしました。「今お聞きしたスズカといいますのは、私のイミナ(実の名)でもあります。アマテルカミよりこの名をいただきましたが、本当のところこの名(スズカ)の意味がよくわからないのです。この意味を教えていただけますか?」アマノコヤネが答えます。「スズカとは物欲にとらわれない生き方をいうのです。人はともすれば欲しい欲しいという気持ちが先に立ち、欲望に囚われやすいものなのです。しかし人のタマシイのタマといいますのは、地上で楽しみを得たいがために、宇宙からやって来たのです。タマは死後ふたたび宇宙の中心(アモト)に戻ります。私達がこの世界で生きて行く上で大切な事は、必要以上のシイ(欲望)が、タマの地球上での楽しみを弱めてしまう、ということに気付くことなのです。タマを生かそうとするためには、シイ(欲望)とうまく付き合っていくことが大切です。シイ(欲望)にとらわれないで自由に生きることをスズカというのです」》
《鹿島神宮の宝物館に、国宝韴霊剣(直刀といわれている)が展示されています。この剣は実物大の模造品が展示されていて、誰でも持つことが出来るのですが、まず持ちあがりません。二・七一メートルとかなりの長刀で、今から一二〇〇年から一三〇〇年前に造られたものといわれています。このような剣を造る技術は、相当なものです。鹿島神宮の東南三キロの地、鹿嶋市木滝本郷には古代の製鉄遺跡があり、鹿島灘の海岸近くで砂鉄が取れました。韴霊剣についてはこのように書かれています。「神武東征の時、神武天皇を乗せた船が熊野灘において嵐にあい、難破しそうになっていました。一行は疲れはて、倒れていました。その時、アマノコヤネの子孫タカクラシタの夢の中にタケミカツチが現れ、私とフツヌシの魂を船倉に置くのでこれを奉るようにというのです。そこで船倉をみると剣が船底に立っていました。これを見た一行は、奮い立ったのです。そして無事上陸を果たし、険しい熊野の山中に向かって進軍して行ったのです」これまで見てきましたように香取・鹿島の地は武将の祖ともいえるフツヌシやタケミカツチを生んだ地でした。そこには製鉄の技術もあり剣を作ることもできました。》
《卜伝の修行から一年が経とうとしていたある日のこと、政信に連れ添っていた子供が、卜伝を見るなり突然「剣は人を斬るものばかりではありません」と言いはなったのです。この鋭い一言に、迷いの極地にあった卜伝の目が覚めたのです。この子こそ、後に剣聖と仰がれた、上泉伊勢守信綱でした。卜伝三十一歳、信綱十一歳の時のことです。参籠から一千日が経ったある朝のことです。本殿を拝し、御手洗池で禊ぎをし、タケミカツチの奥宮にひれ伏し、その場を去ろうとしたその時でした。朝日が雲間から光の帯となってさし、卜伝の影が樹影と共に地に映った瞬間のことでした。「剣の極致は大神の神意に従って人の和をつくりだすこと。天と地の間に立つ人間として、人の世から争いをなくし平和な世界をつくること。これこそが私に与えられた道である」と悟ったのです。悟りを得た卜伝は、木剣に人の和を念じました。それは「一つの太刀」の奥義そのものでした。(「剣聖の面影塚原卜伝の生涯」塚原卜伝顕影会発行参考)》
《ミカサフミの著者、ミカサオオカシマは、ウサマロの子孫であり、その先祖はアマノコヤネです。ミカサオオカシマは、伊勢神宮創建(垂仁天皇二五年)の五大夫の一人で、初代伊勢神宮の宮司になった人です。ちなみに五大夫とは、阿部臣、和珥(わに)臣、物部連、大伴連、大鹿嶋(おおかしま)のことです。大伴連(むらじ)はアマノコヤネの子ヒタチの子孫で後の大伴氏であり、大鹿嶋はアマノコヤネの子オシクモの子孫で、後の藤原氏になるのです。》
《東北の地が古代に最も早く栄えた地であったことから、東北の人々には高いプライドがありました。それが次第に朝廷の意向に逆らうようになっていったものと考えられます。もともと東北は食糧が豊かな土地でした。さらに良馬や金も産出していたのです。オホナムチの子アチスキタカヒコネがフツヌシに馬術を教わったとされていますので、紀元前八百年頃にはすでに乗馬が行われていたのです。また五代タカミムスビ、トヨケカミは金属精錬技術を持っていたとされていますので、鉄ばかりでなく金の産出も古代から行われていたのです。東北は、ヤマトタケの時代(紀元一〇〇年頃)においてすでに一種独立国の様相を呈していたのです。俘囚(ふしゅう)という、どこか馴染みにくいこの言葉の意味は、朝廷の支配下に入った蝦夷のことをいいます。蝦夷とか俘囚といわれた人々は、蛮族というよりもクニトコタチ以来の古代の血を受け継ぐ人々でした。このようなさげすみを思わせる漢字があてられた訳は、彼等が朝廷の意向に従わなかった人々であったからというだけでなく、当時の都で活躍していた渡来人(帰化人)にとって、関東以北はなじみにくく、また武人が多くいたことからも恐れられていたからです。》
《七九七年に坂上田村麻呂が二代目征夷大将軍(初代は大伴弟麻呂)となり、東北一帯を治めることになりました。田村麻呂の政治を目の当たりにしたアテルイとモレは配下の者五〇〇人を引き連れ出頭したのです。田村麻呂を信じての行動だったのです。東北はその後においても、平将門の乱(九三九年)が関東で勃発するとそれに呼応したかのように、秋田城で俘囚の乱が起きたりしています。一二世紀になってエミシの独立性が薄れてきた頃から、収まりを見せ始めました。》
20 花の窟神社DSCF2472.jpg花窟神社は、イサナミの亡骸を安置した所です。この神社は七里御浜の海岸近くにあります。鳥居をくぐり、木々に囲まれた細い参道を通り、神社の建物の間を抜けると、いきなり眼前に巨大な岩の壁が目の前に現れます。岩からのエネルギーに圧倒される思いです。これまで訪れた神社にはない光景がそこに広がっていました。ワカヒメ、アマテルカミ、ツキヨミ、ソサノヲという古代史上もっとも重要な子を生んだイサナミの亡骸を安置した場所として、まさにふさわしい光景です。この神社には社殿がありません。四五メートルの巨大な岩壁のすぐ下が遥拝する所になっています。「イサナミはアリマにて亡くなり花と穂をもって祭られた」この記述がもととなり、長い縄を岸壁にかけ、そこに花を飾る風習が生まれたものと思われます。本居宣長はここを訪れ、次の歌を詠んでいます。「紀ノ国や花窟にひく縄のながき世絶えぬ里の神わざ」》
獅子岩.jpg《七里御浜の獅子岩は、獅子が海に向かって咆哮しているかのようで、見応えがあります。この後に産田(うぶた)神社を目指しました。花窟神社から一キロ程山側に向かった所です。遥拝する先は白石がひきつめられていてその奥に社殿がありました。この地がイサナミが亡くなられた所とされる、アリマ(有馬)です。この近くを流れる産田川でソサノヲは子供の頃遊んでいたのではないか、と池田氏は著書に記しています。》→「宮内熊野大社春季例祭「花祭」」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2013-05-01 大津家に伝わる熊野神社縁起によると、当社は「大同二年、紀州熊野郡有馬村峯ノ神社ヲ遷シ玉フ」とある。》
《最愛の妻イサナミを亡くしたイサナギは、悲しみのあまり、ココリヒメ(シラヤマ姫)の止めるのも聞かずに、イサナミの亡骸がある所におもむきました。イサナミの遺体は腐乱し、蛆がわいている状態でした。このような姿を見られたイサナミ霊は怒り、イサナギにたたるようになってしまいました。イサナギはたたりをはらうために各地でミソギをするのですが、六代アマカミ、オモタルより、身のけがれをはらうのは歌を詠むことである、とさとされます。イサナギがけがれをはらった場所の一つが、これから向かう熊野本宮大斎原(おおゆのはら)の西側を流れるオトナシカワでした。》
《九〇七年の宇多上皇に始まり、一二八一年の亀山上皇までの三七四年間に、一四一度の御幸が行われています。京都から片道三〇〇キロ、日数にして往復一ヵ月(一日平均二〇キロ)を要した参詣の旅は、肉体的にも経済的にも大変な旅でしたが、時の上皇にとって重要な地でした。もともとは、イサナミがソサノヲのけがれをはらうことを目的につくられた熊野の宮ですが、後の世では上皇が自らのけがれをはらうことが目的になりました。天皇は伊勢の神(アマテルカミとトヨケカミ)に奉仕し、上皇は天皇を支えるために禊の旅(御幸)をしたのです。京都から熊野の山中を、厳重な精進のもと、百に余る王子社にそれぞれ幣帛(へいはく)をささげ祈念しながら進んで行きました。》
《熊野本宮大社のご祭神は、第一殿がイサナミ、コトサカノヲ第二殿がイサナギ、ハヤタマノヲとなっていて、イサナミとコトサカノヲは同一、イサナギとコトサカノヲも同一の人となっています。これは間違いと述べましたが、そのことについてご説明したいと思います。新宮にはご祭神として、第一殿が熊野結大神第二殿が熊野速玉大神が祭られています。熊野結大神は、コトサカノヲのことであり、熊野速玉大神はハヤタマノヲのことです。ですから熊野本宮と同じ祭られかたをしています。問題は、コトサカノヲとハヤタマノヲは、イサナミ、イサナギではないと言うことです。ホツマツタエ二アヤには、「トヨウケの姫のイサコとウキハシをハヤタマノヲが渡しても解けぬ趣(おもむ)き解き結ぶコトサカノヲぞ」と書かれています。トヨウケの姫とは、トヨケカミの子つまりイサナミのことです。ハヤタマノヲがイサナミの結婚にあたり、子を産むための性教育を授けたのですが、イサナミは恥ずかしさのあまり、良く理解できないようでした。そこでコトサカノヲがもう一度教えたところ、ようやく理解することができ、二人は結ばれたと言うことです。二人を結んだ方が、コトサカノヲであったことから熊野「結」大神と言われるようになったのではないかと思われます。こうしたことから、ハヤタマノヲとコトサカノヲは、イサナミ、イサナギではないことがわかります。それでは、ハヤタマノヲとコトサカノヲはどなた様なのでしょうか。新宮にある熊野神宝館には、国宝として、熊野速玉大神と熊野夫須美大神の像があります。夫須美(ふすみ)は結(むすび)のことで、コトサカノヲのことです。速玉はハヤタマノヲのことです。ここではハヤタマノヲは、男性、コトサカノヲは女性の像になっています。ここから推測しますと、コトサカノヲはイサナミの母、つまりトヨケカミの妻ではないかと思われます。それではハヤタマノヲはどなた様かと言いますと、イサナギの父アワナギではないかと思うのです。女性であったイサナミが、自分の夫(イサナギ)になる方の父(アワナギ)に、性教育を受けたものの、恥ずかしさも手伝ってとても理解できませんでしたが、自分の母に教わり、それも解消され、ようやく二人は結ばれたのではないかと思います。まとめますと、ハヤタマノヲはイサナギの父、コトサカノヲはイサナミの母と言うことになります。日本書紀ではとてもこの答えを導き出すことが出来なかったことから、いつの間にか同一神にされてしまったものと考えます。》

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