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泉親衡を祀る和光神社(「鎌倉殿の13人」) [宮内]

和光神社 泉親平.jpgNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」と宮内の関わり(https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2022-06-09-3)、①この地域を「北条郷」というのは、北条時政の妾腹の子北条相模坊臨空に由来する ②熊野大社末社の融通神社には、大江広元の孫長井泰秀(次男時広の子)が祀られている ③置賜の寒河江家は大江広元の長男親広の子孫 というそれぞれ独立した関わりがあることがわかっていたが、23日の第40話でもうひとつの関わりがでてきた。和田義盛との戦いのきっかけをつくった泉親衡(親平)、ドラマ上ではその後行方知らずとなっているようだが、実は、慶長3年(1598)飯山から宮内に移ってきた尾崎家の初代が泉親衡で、尾崎家の氏神様である熊野大社末社和光神社に祀られている。
『飯山市史』にこうある。《英岩寺境内に和光明神が祀られている。この本地は三宝荒神で、泉親平が鎌倉で一乱後、ゆくえをくらましていたが、その後文和年中八代の孫飯山入道氏重が兵火にかかった小菅八所権現の造営、五束の大宮諏訪大明神の社殿修復をし、泉八家の祖和光明神を八幡宮とともに尾崎の地に祀った。その後政重により再興、父重歳がこれを飯山城に移したが、長尾景虎出陣して城を修復のさい、英岩寺境内に移したという。慶長三年上杉景勝の会津移封のさい、尾崎氏に奉ぜられて移った和光明神は山形県宮内町に現存している。》(上巻「第4節 仏教の展開」の「和光明神」355p)泉親衡は尾崎家の祖なのだ。かつてこの和光神社に関わる奇跡を体験したことがある。→「和光神社が結ぶ歴史的奇遇」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2010-04-02 ドラマの展開で「熊野起請文」が重要な役割を果たしていたのもおもしろい。
和光神社記念写真mini.jpg
https://oshosina.c.blog.ss-blog.jp/_images/blog/_e75/oshosina/3E98086E38195E7838F.jpg
《御烏さまという特殊な御守札。日本三熊野(紀州三熊野・軽井沢熊野・羽州熊野)のみが、昔から頒布しているものであって他所にはない。》(北野猛宮司著『熊野大社年中行事』https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2014-12-20
ちょうど昨日アップなった「泉親衡の乱」の記事があったので、ウィキペディアと併せて転載しておきます。
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泉親衡の乱と和田一族・千寿丸・源実朝~和田合戦~https://ameblo.jp/namu-hatiman/entry-12671663589.html
2022-10-23 05:00:00

『吾妻鏡』によると・・・
1210年(承元4年)11月21日明け方、駿河国の建穂寺の鎮守馬鳴大明神から酉年に戦があるというお告げがあったそうです。
同日、源実朝も夢の中でお告げを聞いたのだとか・・・

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

酉年の1213年(建暦3年)。
和田義盛は、正月4日の垸飯(おうばん)を務めました。
垸飯は、将軍を饗応する行事で、主従の関係を再確認する重要な儀式でした。
この年の垸飯は、1日が大江広元、2日が北条義時、3日が北条時房が務めました。
実朝が義盛を、大江広元や北条氏に次いで重用していたことがわかります。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

翌2月、事件が起こります。
2月15日、千葉成胤が阿静房安念という法師を捕えて北条義時のところへ連行します。
安念は謀反に賛成する仲間を勧誘していたのだとか。
2月16日、安念の白状によって、謀反を企てたとする者が捕えられます。
捕えられた者の中には、和田義盛の子和田義直と和田義重、甥の和田胤長が含まれていました。
謀反を画策したのは信濃国の御家人泉親衡
親衡は、二代将軍源頼家の遺児千寿丸を将軍に据えて義時を討とうと企んでいたようです。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2月18日、囚人の一人薗田成朝が敬音という僧の宿舎へ逃亡。
敬音は、成朝に出家を勧めますが、国司に任ぜられたいという希望が叶わぬうちは出家はしないと語って行方知れずに。
2月20日、逃亡した薗田成朝について、敬音から話を聞いた実朝は、恩赦することにしたのだとか・・・
2月25日、囚人の一人渋河兼守は、26日の明け方、安達景盛に処刑されることに決定されますが、悲しみに絶えない兼守は、荏柄天神社に十首の和歌を奉納することにしました。
2月26日、前夜から荏柄天神社に籠っていた工藤祐高が、渋河兼守の奉納した十首の和歌を御所に持ち帰ります。
その和歌をみた実朝は、その出来に感激して罪を許したのだとか・・

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

3月2日、泉親衡が筋替橋の辺に隠れているとの噂があったため、工藤十郎を派遣しますが、親衡は工藤らを殺害して逃亡、その後行は行方不明に

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

3月8日、上総国にいた和田義盛が鎌倉に戻り、御所を訪れて実朝と面会。
実朝は、義盛のこれまでの手柄に免じて子の義直と義重の罪を許します。
3月9日、義盛は一族98人を引き連れて、甥の胤長の赦免を求めて御所を訪問。
大江広元が取り次ぎますが、胤長は今度の事件の主犯であるとして許されず、後ろ手に縛りあげられた胤長は一族の前を引きたてられ、二階堂行村へ引き渡されたのだといいます。
この時、義時はわざわざ「なおも厳しく取り調べるように」と言い伝えたのだとか。
3月17日、胤長が陸奥国岩瀬郡へ配流
3月19日、横山時兼が和田義盛邸を訪れ、甲冑に身を固めた兵五十数人が義盛邸あたりを徘徊したため、実朝は伊賀朝光に止めさせたのだといいます。
3月21日、和田胤長の娘が病気に。
和田朝盛(義盛の孫)が胤長に似ているということで見舞いますが、その晩に亡くなってしまいました。
胤長の妻は出家。
3月25日、荏柄天神社の前にあった和田胤長の屋敷が一族に払い下げられます。
ところが・・・
4月2日、和田義盛は払い下げられた胤長の屋敷に久野谷弥次郎を住まわせていましたが、北条義時が泉親衡の乱平定に功績のあった金窪行親・忠家に胤長の屋敷を与え久野谷弥次郎を追い出してしまいます
4月15日、和田朝盛が将軍実朝に弓は引けないとして出家し、京都へ向けて出発。
しかし・・・
4月16日、怒った義盛が義直に連れ戻すように命じ、4月18日、駿河国から連れ戻されてしまします。
4月24日、義盛が、祈祷僧で伊勢国の尊道房を追い出します。
それが、祈祷のため伊勢神宮へ行かせたらしいとの噂が飛び交います。
4月27日、実朝は義盛が挙兵するという噂があるので、宮内兵衛尉公氏を義盛邸へ送ります。
その時、公氏に会うために寝殿から出てきた義盛は、公氏の前に烏帽子を落としてしまいます。
首が落ちたようだと思った公氏は、義盛は挙兵しても討たれてしまうに違いないと思ったのだとか・・・
義盛は公氏の問いに「反逆の気持などない」と答えましたが、古郡保忠や朝比奈義秀らが武器を揃えていました。
実朝は、その晩にも行部丞忠季を義盛邸に送りました。
義盛は、
「将軍実朝様には全く恨みはない。
義時の所業が傍若無人なので、それを問いただすために出向こうと若い者たちが話し合っているようだ。
何度も諫めたが、すでに皆心を一つにしてしまっているので、もう止めようがない
と答えたのだといいます。
4月29日、義時から義絶されていた北条朝時が駿河国から参上。
5月2日、和田義盛挙兵
5月3日、和田義盛滅亡
5月5日、北条義時が侍所別当に就任。
5月7日、胤長、配流先の陸奥国で処刑

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

泉親衡に利用された千寿丸は・・・
11月10日、泉親衡に利用された千寿丸が北条政子の勧めで出家
しかし、1214年(建保2年)、京都に潜んでいた和田の残党に担がれて六波羅襲撃を計画しますが、事前に露見
11月13日、大江広元の在京の家人に一条北辺りの旅亭(仁和寺らしい)を襲撃されて自刃したのだといいます。

ただ、こんな伝承も。
討手から逃れた親衡と千寿丸は河越の地で出家。
親衡は静海と名乗り、1265年(文永2年)5月19日に死去。
千寿丸は道円と名乗り、のちに北条時頼から最明寺を寄進されたのだといいます。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

和田合戦は、泉親衡の謀反を機に北条義時が和田義盛を挑発して起こさせた事件といわれます。
ただ、泉親衡の謀反計画に和田一族も加担していることや、親衡に謀反を起こすほどの力があったのかという疑問もあることから、謀反の首謀者は義盛ではなかったのかという説があります。
義盛は、義時に対抗するため上総介任官を望んでいました。
実朝は義盛の上総介任官に努力していましたが叶わなかったのだといいます。


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(ウィキペディア「親衡の乱」より)

乱後

胤長の屋敷は一旦は義盛が拝領することとなったが、義時の反対に遭い、結局は北条氏の預かりとなったため、面目を潰された義盛は北条氏を打倒する意思を固め、和田合戦に繋がることとなった。

泉親衡は、源満仲の弟満快の子孫と伝えられ、自身も源氏の一族であったことから、御家人である北条氏の下風に立つことを好まなかったとされている[誰によって?]が、乱にかかる捕縛者のうち和田一族以外は直後に放免されている上に、親衡も生き延びており(その後の親衡の行方は不明)、和田一族を滅ぼす目的で義時が義盛を挑発した事件であったとも言われる[1]。一方で、さほど有力な御家人でもない親衡が鎌倉で300人以上の武士を集めていることから、乱の黒幕は義盛、もしくは義盛の子や孫の世代の和田一族とする説もある[2]

伝承

親衡は、神奈川県横浜市泉区に居館を持っていたと伝わる(泉小次郎親衡館[3]

乱後、逃走した泉親衡の行方は不明だが、埼玉県川越市小ヶ谷町にある瑶光山最明寺の縁起によると、親衡は千寿丸とともに当地に落ち延びて出家し「静海」と名乗り、文永2年5月19日1265年7月3日)に88歳で没したとされ、静海の宝篋印塔も残るという[4][5]

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