新・mespesadoさん講義(164)「一なるもの」(承前) [mespesado理論]
《脳の「機能の仕組み」それ自体が「一なるもの」の正体である》、チャンチャン、一件落着。ハラに収まりそうです。ここからどんな展開があるのだろうか、楽しみです。
* * * * *
11 名前:mespesado 2022/07/01 (Fri) 14:19:49
>>2
それでは「一なるもの」の解説です。人が何か行動するとき、それには大抵は動機があります。そしてその動機は本能に近い欲に突き動かされるものもあれば、そこに何らかの「思考」が入って、将来的な利益の為に今はシンドいけれど頑張ってやろう、というものもあります。今の欲にかられるのでも将来のことを考えてでもよいですが、どちらも「自分のため」であるという点は共通です。そして、この「利己的」な動機は、実は大きな問題があります。私がここで言いたいのは、「利己的なんて非倫理的だ。利他的に行動しなさい」という、宗教や学校教育などでよくある「道徳」や「倫理」の観点ではありません。「動機が利己的だと長続きしない」←実はこれが一番問題だと思うんです。自分の為になにかをしようと決意する。ところがその何かというのは大抵は努力が必要で、最初の意思が強いうちはまだ機能するが、そのうちその動機が弱くなって、ついには努力のしんどさの方が勝ってしまい、気が付いたらやめてしまっていた。俗に言う「三日坊主」というヤツですね。これは、以前斎藤ひとりさんの言葉だったかで紹介した「脳はサボろうとする」という特性が原因なんだろうと思います。
一方で、この利己的動機には、三日坊主のような「情けない終わり方」ではない「一見見事な終わり方」というのもあります。それは、別にオリンピックの金メダルだとか相撲や将棋での優勝とかノーベル賞を受賞である必要は無く、どんなささやかな目標でもいいから、それを目指して日々食事も忘れるくらいひたすら努力に努力を重ねて、ついに成功する。一見立派で見事です。しかし成功するということは、裏を返せば目標を失う、ということでもあります。確かに達成した当初は成功の喜びの余韻に浸れても、ほとぼりが冷めると「目先の目標を失った喪失感」で無気力になるか、はたまた「より高い目標を作ってそれをめざそうとする」かどちらかで、後者の場合は馬の前にぶら下げたニンジンみたいなもので、しかも次第にハードルが高くなりますから、いつかは努力に疲弊して、ある日当初の目的の意義に疑問を感じて「心がポッキリ折れちゃった」症候群になりかねません。そういうわけで、動機が利己的な行動原理は根本的な問題がある。
というわけで、それでは利他的な動機ならどうか、ということになる。これは自分のためじゃなくて、他人のためなんだ、という目的なら三日坊主くらいなら防げるんじゃないか、という気もしますね。事実宗教では、この利他の精神を説くことで、それをずっと続けるところまでが「修業」みたいに推奨されることがあります。しかし「修業」というだけあって、辛いことは辛い。しかもただ「他人」というだけじゃ顔が見えないから、誰だかわからない他人のため、というのは今一つ動機として弱い。例えば「よし!今日から他人に親切にしよう!」と決意して、乗り物で老人に席を譲ったとします。そこで感謝の言葉を貰えたらよいけれど「何だと?人を年寄り扱いするな!」などと逆に怒られたりした日にゃ、「何だよ!せっかく親切心で席をゆずってやったのに!こんな不愉快な思いをするくらいなら二度と人に席を替わって何かやるものか!」となっちゃう。つまり動機が具体性の無い「他人」のため、というのでは、やはり脆弱なわけですよね。
そこで、人間の脳のもう一つの機能がうまく利用できるわけです。それは「尊敬できる人間のための努力には耐えられる」という仕組みです。その前に「尊敬」とは何か、ということを確認しておきましょう。よく似た感情として「感謝」というのがあります。相手に「感謝」することと相手を「尊敬」するというのは何が違うのか?それは、こまかいことはともかくとして、大枠としては、相手が貴方に対して利他的行為をした場合のあなたに生じる感情が「感謝」であり、その相手が貴方だけでなくすべての他人に対して利他的な行動を取るときのあなたに生じる感情が「尊敬」です。そして、人間は「何かやってもらったらお返ししたくなる」という本能がある。それは、そういう相互扶助的な本能を持っていた方が集団的に生存に有利になるからだと思います。この本能により、相手が自分に対して何かしてもらったとき、努力してでもその相手に対して利他的な行為で返そうとする動機は強まるので、自分のためという動機と違って「めんどくさいからもういいや」とはなりにくく、より動機が持続しやすいわけです。さて、じゃあ「感謝」と「尊敬」ではどう違うかというと、「感謝」の場合は、一度恩を返してしまうとそれで終わり、ということになり、動機も「一回ぽっきり」になりがちで、お返しした段階で動機も終了してしまいます(ただし命の恩人みたいに重い恩なら話は別です)。これに対して「尊敬」の場合は、他人に対していつでも利他的であれば、自分も常にその人の利他行為の恩恵に授かれると期待できることから、「感謝」の場合に比べて、より「持続的」だと思われるわけです。
ところが「尊敬」についても問題があります。それは、その尊敬の対象が「尊敬に値する崇高な人かどうか」という観察が絶えず入る、ということです。特にスキャンダルはダメージが大きい。これは、本能レベルで考察すると、その「尊敬」する人のために何かしてあげたとしても、「以前は利他的行為をする人」だったとしても、現在でもその利他的な性質が持続していることが保証できないと、恩を売ってもその相手からお返しが貰えるかどうかわからないからです。
一方、この人間が持つ「尊敬」と「お返し」の本能を、「政治」の世界で利用したのが「君主制」です。君主が「尊敬」の対象になれば、皆が君主に恩を感じ、君主に恩を返そうとする。これが君主を中心にした国家のまとまりをスムーズに行うために利用できる。これは「絶対君主制」みたいに「君主」が絶対的な権力で、ときには脅しを使って支配するのとは根本的に異なる日本の天皇による「平和裏」の「知らす」という統率方法だと思うのです。
さて、そうはいっても「君主」も人間ですから、常に利他的なことをし続けるような奇特な人ばかりではない。特に上で述べたように、君主のスキャンダルは場合によっては致命的です。そこでどうするかというと、君主は雲の上の人だ、ということにして、日常の生活を大衆に知られないように隠しておくわけです。今みたいな情報社会でなかった戦前までは、それでうまくいったかもしれない。しかし情報化社会の今日ではかなり無理がある。ですから、この情報化社会のもとで、戦前みたいな君主制に戻そうとしたって、うまく機能するわけがないと思うのです。
さて、「尊敬」の対象をトップに君臨させておくとうまく人々が統率できるという仕組みをうまく利用したのは政治の世界だけではない。何と言っても宗教の世界がその一つです。その「尊敬」の対象として、宗教が誕生したときは、まずはその言い出しっぺである「教祖」が「尊敬」の対象になる。しかし教祖は人間ですから、やがて寿命が尽きる。そこで、その教祖が祭り上げられる場合もあれば、その教祖がその存在を主張していたであろう「神」というものが、その「尊敬」の対象として仰がれることになります。「神」は、人間が頭の中で作った概念ですから、「万能」であり、スキャンダルとは無縁の対象となり得ます。その結果、上で述べた人間の本能のおかげで、宗教は世界中で機能し、長年持続して今日に至っているわけですね。
ところが、この宗教にも問題がある。それは、宗教が勢力を持って一つの民族にまで普及すると、他の宗教との間に教義の違いなどから対立が起き、戦争の原因になったり、宗教が政治と結びついて「神」の人格ならぬ「神格」に、政治支配に都合がよいような要素が後代に加わったりします。「戒律を破ると罰を与える一神教の神」なんてのは、その最たるものですよね。こうなってくると、宗教の神というのは、それはそれで充分政治的には機能したかもしれませんが、そもそもの「人間が何かをやろうとしたとき、その動機が続くために『尊敬』の対象となる何者かのために頑張りたいと思う心で動機を維持する」という目的からはかけ離れたものになってしまい、「尊敬」の対象どころか「恐怖支配」のための「恐怖」の対象になってしまいます。「これをやらないと制裁があるから努力しよう」という動機では、心はビクビクハラハラの連続で、これでは無事目的を成し遂げる前に、ストレスでどうにかなってしまうでしょう。
そこで登場したのが、スピリチュアルな概念になりますが、「神」のかわりに「一なるもの」の存在を認め、これを例えば人体に擬えた場合、我々一人ひとりは、この人体を構成する細胞の一つである。だから我々はこの一つの人体を機能させる細胞の一つとしてのミッションを与えられている。また、逆に、我々一つ一つの細胞は、この人体が機能しているおかげで生かされている、と考えるわけです。そうすると、この人体に擬えた「一なるもの」は、「尊敬」の対象ではなく、それのおかげで生かされているのですから「感謝」の対象であり、しかも最初の感謝の例で例外的に述べた「命の恩人」の立場にあるわけですから、この「感謝」は永久に続き、従って「恩返し」の動機も永久に続くことができるわけです。
これはとてもうまい考え方、ではあるのですが、一つだけ問題があります。それは、この「一なるもの」というのがあまりに唐突であること。もちろん宗教の「神」だって唐突なのですが、そこは長年の伝統によって「有無を言わさず存在が信じ込まされている」ところもあるので、機能してきたわけですが、それじゃあ、この「一なるもの」は何かその存在に根拠があるのか?ということ。なぜ根拠に拘るかというと、これまた脳の仕組みとして、「脳は本気で信じたことはものすごいエネルギーで実行しようとする能力を持つ」からです。つまり、この「一なるもの」の存在が、脳がなるほどと納得できるほど確かなものであれば、脳は驚くほどの力で自発的に目的達成のために努力できるようになる。だから、この「一なるもの」の存在が心から納得できる、腑に落ちる必要があります。私は、この「一なるもの」が、脳をインターフェイスにした「目に見えないが存在する、例えばダークマターの中にそれがある」という可能性ももちろんあると思いますが、人間の脳の生存を直接コントロールする脳幹から旧皮質に至る部分は、各個人の性格とは無関係に一律の仕組みで機能していると思いますから、その脳の「機能の仕組み」それ自体が「一なるもの」の正体である、という可能性もあります。いずれにせよ、こういった可能性を何となく肌感覚として正しいんじゃないか、と思うことが多々あり、私にとって「一なるもの」存在証明は、現段階ではそれで十分だし、まあ将来の科学なり精神世界の仕組みの解明により、これはより仕組みが明らかになってくるところだと考えています。以上が「唯物的」に解説した「一なるもの」についての私の現時点での理解です。
>>2
それでは「一なるもの」の解説です。人が何か行動するとき、それには大抵は動機があります。そしてその動機は本能に近い欲に突き動かされるものもあれば、そこに何らかの「思考」が入って、将来的な利益の為に今はシンドいけれど頑張ってやろう、というものもあります。今の欲にかられるのでも将来のことを考えてでもよいですが、どちらも「自分のため」であるという点は共通です。そして、この「利己的」な動機は、実は大きな問題があります。私がここで言いたいのは、「利己的なんて非倫理的だ。利他的に行動しなさい」という、宗教や学校教育などでよくある「道徳」や「倫理」の観点ではありません。「動機が利己的だと長続きしない」←実はこれが一番問題だと思うんです。自分の為になにかをしようと決意する。ところがその何かというのは大抵は努力が必要で、最初の意思が強いうちはまだ機能するが、そのうちその動機が弱くなって、ついには努力のしんどさの方が勝ってしまい、気が付いたらやめてしまっていた。俗に言う「三日坊主」というヤツですね。これは、以前斎藤ひとりさんの言葉だったかで紹介した「脳はサボろうとする」という特性が原因なんだろうと思います。
一方で、この利己的動機には、三日坊主のような「情けない終わり方」ではない「一見見事な終わり方」というのもあります。それは、別にオリンピックの金メダルだとか相撲や将棋での優勝とかノーベル賞を受賞である必要は無く、どんなささやかな目標でもいいから、それを目指して日々食事も忘れるくらいひたすら努力に努力を重ねて、ついに成功する。一見立派で見事です。しかし成功するということは、裏を返せば目標を失う、ということでもあります。確かに達成した当初は成功の喜びの余韻に浸れても、ほとぼりが冷めると「目先の目標を失った喪失感」で無気力になるか、はたまた「より高い目標を作ってそれをめざそうとする」かどちらかで、後者の場合は馬の前にぶら下げたニンジンみたいなもので、しかも次第にハードルが高くなりますから、いつかは努力に疲弊して、ある日当初の目的の意義に疑問を感じて「心がポッキリ折れちゃった」症候群になりかねません。そういうわけで、動機が利己的な行動原理は根本的な問題がある。
というわけで、それでは利他的な動機ならどうか、ということになる。これは自分のためじゃなくて、他人のためなんだ、という目的なら三日坊主くらいなら防げるんじゃないか、という気もしますね。事実宗教では、この利他の精神を説くことで、それをずっと続けるところまでが「修業」みたいに推奨されることがあります。しかし「修業」というだけあって、辛いことは辛い。しかもただ「他人」というだけじゃ顔が見えないから、誰だかわからない他人のため、というのは今一つ動機として弱い。例えば「よし!今日から他人に親切にしよう!」と決意して、乗り物で老人に席を譲ったとします。そこで感謝の言葉を貰えたらよいけれど「何だと?人を年寄り扱いするな!」などと逆に怒られたりした日にゃ、「何だよ!せっかく親切心で席をゆずってやったのに!こんな不愉快な思いをするくらいなら二度と人に席を替わって何かやるものか!」となっちゃう。つまり動機が具体性の無い「他人」のため、というのでは、やはり脆弱なわけですよね。
そこで、人間の脳のもう一つの機能がうまく利用できるわけです。それは「尊敬できる人間のための努力には耐えられる」という仕組みです。その前に「尊敬」とは何か、ということを確認しておきましょう。よく似た感情として「感謝」というのがあります。相手に「感謝」することと相手を「尊敬」するというのは何が違うのか?それは、こまかいことはともかくとして、大枠としては、相手が貴方に対して利他的行為をした場合のあなたに生じる感情が「感謝」であり、その相手が貴方だけでなくすべての他人に対して利他的な行動を取るときのあなたに生じる感情が「尊敬」です。そして、人間は「何かやってもらったらお返ししたくなる」という本能がある。それは、そういう相互扶助的な本能を持っていた方が集団的に生存に有利になるからだと思います。この本能により、相手が自分に対して何かしてもらったとき、努力してでもその相手に対して利他的な行為で返そうとする動機は強まるので、自分のためという動機と違って「めんどくさいからもういいや」とはなりにくく、より動機が持続しやすいわけです。さて、じゃあ「感謝」と「尊敬」ではどう違うかというと、「感謝」の場合は、一度恩を返してしまうとそれで終わり、ということになり、動機も「一回ぽっきり」になりがちで、お返しした段階で動機も終了してしまいます(ただし命の恩人みたいに重い恩なら話は別です)。これに対して「尊敬」の場合は、他人に対していつでも利他的であれば、自分も常にその人の利他行為の恩恵に授かれると期待できることから、「感謝」の場合に比べて、より「持続的」だと思われるわけです。
ところが「尊敬」についても問題があります。それは、その尊敬の対象が「尊敬に値する崇高な人かどうか」という観察が絶えず入る、ということです。特にスキャンダルはダメージが大きい。これは、本能レベルで考察すると、その「尊敬」する人のために何かしてあげたとしても、「以前は利他的行為をする人」だったとしても、現在でもその利他的な性質が持続していることが保証できないと、恩を売ってもその相手からお返しが貰えるかどうかわからないからです。
一方、この人間が持つ「尊敬」と「お返し」の本能を、「政治」の世界で利用したのが「君主制」です。君主が「尊敬」の対象になれば、皆が君主に恩を感じ、君主に恩を返そうとする。これが君主を中心にした国家のまとまりをスムーズに行うために利用できる。これは「絶対君主制」みたいに「君主」が絶対的な権力で、ときには脅しを使って支配するのとは根本的に異なる日本の天皇による「平和裏」の「知らす」という統率方法だと思うのです。
さて、そうはいっても「君主」も人間ですから、常に利他的なことをし続けるような奇特な人ばかりではない。特に上で述べたように、君主のスキャンダルは場合によっては致命的です。そこでどうするかというと、君主は雲の上の人だ、ということにして、日常の生活を大衆に知られないように隠しておくわけです。今みたいな情報社会でなかった戦前までは、それでうまくいったかもしれない。しかし情報化社会の今日ではかなり無理がある。ですから、この情報化社会のもとで、戦前みたいな君主制に戻そうとしたって、うまく機能するわけがないと思うのです。
さて、「尊敬」の対象をトップに君臨させておくとうまく人々が統率できるという仕組みをうまく利用したのは政治の世界だけではない。何と言っても宗教の世界がその一つです。その「尊敬」の対象として、宗教が誕生したときは、まずはその言い出しっぺである「教祖」が「尊敬」の対象になる。しかし教祖は人間ですから、やがて寿命が尽きる。そこで、その教祖が祭り上げられる場合もあれば、その教祖がその存在を主張していたであろう「神」というものが、その「尊敬」の対象として仰がれることになります。「神」は、人間が頭の中で作った概念ですから、「万能」であり、スキャンダルとは無縁の対象となり得ます。その結果、上で述べた人間の本能のおかげで、宗教は世界中で機能し、長年持続して今日に至っているわけですね。
ところが、この宗教にも問題がある。それは、宗教が勢力を持って一つの民族にまで普及すると、他の宗教との間に教義の違いなどから対立が起き、戦争の原因になったり、宗教が政治と結びついて「神」の人格ならぬ「神格」に、政治支配に都合がよいような要素が後代に加わったりします。「戒律を破ると罰を与える一神教の神」なんてのは、その最たるものですよね。こうなってくると、宗教の神というのは、それはそれで充分政治的には機能したかもしれませんが、そもそもの「人間が何かをやろうとしたとき、その動機が続くために『尊敬』の対象となる何者かのために頑張りたいと思う心で動機を維持する」という目的からはかけ離れたものになってしまい、「尊敬」の対象どころか「恐怖支配」のための「恐怖」の対象になってしまいます。「これをやらないと制裁があるから努力しよう」という動機では、心はビクビクハラハラの連続で、これでは無事目的を成し遂げる前に、ストレスでどうにかなってしまうでしょう。
そこで登場したのが、スピリチュアルな概念になりますが、「神」のかわりに「一なるもの」の存在を認め、これを例えば人体に擬えた場合、我々一人ひとりは、この人体を構成する細胞の一つである。だから我々はこの一つの人体を機能させる細胞の一つとしてのミッションを与えられている。また、逆に、我々一つ一つの細胞は、この人体が機能しているおかげで生かされている、と考えるわけです。そうすると、この人体に擬えた「一なるもの」は、「尊敬」の対象ではなく、それのおかげで生かされているのですから「感謝」の対象であり、しかも最初の感謝の例で例外的に述べた「命の恩人」の立場にあるわけですから、この「感謝」は永久に続き、従って「恩返し」の動機も永久に続くことができるわけです。
これはとてもうまい考え方、ではあるのですが、一つだけ問題があります。それは、この「一なるもの」というのがあまりに唐突であること。もちろん宗教の「神」だって唐突なのですが、そこは長年の伝統によって「有無を言わさず存在が信じ込まされている」ところもあるので、機能してきたわけですが、それじゃあ、この「一なるもの」は何かその存在に根拠があるのか?ということ。なぜ根拠に拘るかというと、これまた脳の仕組みとして、「脳は本気で信じたことはものすごいエネルギーで実行しようとする能力を持つ」からです。つまり、この「一なるもの」の存在が、脳がなるほどと納得できるほど確かなものであれば、脳は驚くほどの力で自発的に目的達成のために努力できるようになる。だから、この「一なるもの」の存在が心から納得できる、腑に落ちる必要があります。私は、この「一なるもの」が、脳をインターフェイスにした「目に見えないが存在する、例えばダークマターの中にそれがある」という可能性ももちろんあると思いますが、人間の脳の生存を直接コントロールする脳幹から旧皮質に至る部分は、各個人の性格とは無関係に一律の仕組みで機能していると思いますから、その脳の「機能の仕組み」それ自体が「一なるもの」の正体である、という可能性もあります。いずれにせよ、こういった可能性を何となく肌感覚として正しいんじゃないか、と思うことが多々あり、私にとって「一なるもの」存在証明は、現段階ではそれで十分だし、まあ将来の科学なり精神世界の仕組みの解明により、これはより仕組みが明らかになってくるところだと考えています。以上が「唯物的」に解説した「一なるもの」についての私の現時点での理解です。
コメント 0