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前記事へのコメント二氏へ [参政党]

昨日の記事を副島重掲板に転載したところ、二人の方からコメントをいただきました。私なりに受け止めて考えてみます。

「文明史的大転換」とはどういうことか

神人(かみひと)さんは、「未来の地球では無くなってしまっているもの」として貨幣制度・貧富・飢餓・戦争・犯罪・支配・所有・競争・商売・自殺・病気・殺生・環境破壊・国境束縛・宗教・結婚制度・差別・虚偽・動物虐待・有害物質・ゴミ・兵器・原発・石油化学製品・電磁波・水産業・畜産業・林業・銀行・ガソリン・農業・いじめ・多出産・義務教育・・・》をあげておられます。私はかなりの程度、納得です。その方向は、現状の流れとは全く違うけれども、時代はその方向に舵を切りつつあるように思えます。まさに「大転換」です。

どこに端的に表れているかといえば、「オカネ」観が変わりつつあると思います。「持ってナンボ」の経済から「使ってナンボ」の経済へ。ロシアvsウクライナの背景は、金融経済から実物経済への転換と私には思えています。「オカネ」は手段でしかなかったことにみんな気づき始めています。

マドモアゼル愛さんが占星術の立場から言っておられます。2000年の長きにわたる壮大な嘘のうお座時代は終わろうとしています。/宗教も嘘、、、学問も嘘、、、、常識も嘘、、、形ある物は嘘で、、、、無に力の源泉が、、すべてが逆転する時代の中で、個を存在足らしめる鍵が、自分は体ではなく意識である、、、ということ。/その意識でないと見えないものが、だんだんと自分が意識であるとなれば見えてくる、、、それが新しい時代を開くカギになるのだと思います。》《水瓶座の時代はクリスタルのように透明な時代で、真実でしか生きられません。/一人一人が自立して、自分の人生を自分で選び、本当の自分を生き、その責任を自分でとることができる時代です。」》https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2016-01-26

「共有型経済」の意味

これからの時代、オレが、オレがの自我意識がどんどんうすれてゆくと思います。自我意識にとっての満足感は「優越意識」です。諸悪の根源です(このことについて、川喜田二郎氏の大好きな文章がありますので、末尾に転載しておきます)。そこから解放された時の満足感は「共感」です。リフキンは『限界費用ゼロ社会』の最終章「生物圏のライフスタイル」のテーマは、「共感するヒト(ホモ・エンパテクスHomo empathecus)」です。《人類史における経済の大パラダイムシフトは・・・人類の意識をも転換し、共感の動因を時間的・空間的により広い領域へと拡大して、いちだんと大きな比喩的家族や相互依存を深めた社会という形で人々を団結させるはずだ。》https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2016-02-20

アナーキズムについて

めいこさんはあの動画の最後のところで「若者が政治に興味を持った時点でケッコーオワッテル」と言い、その前に「基本的に人間というのは信用しないんです」と言っています。参政党とは感覚的に真逆です。はじめっから関わりたくない人です。そもそも近代のアナーキズムとは、自我拡大の行き着いたところなのかもしれません。「自我至上の近代」ではない時代の老荘思想とは根っこで違うように思えます。

*   *   *   *   *

●konaさんから

私は学問道場の会員で、重たい掲示板の投稿をみてこちらに訪問させていただきました。めいさんの重掲での投稿はときおり拝見しており、概ね首肯できることばかりです。ただ(めいさんを批判する意図はまったくないのですが)、今回の投稿は(何度か読み直しましたが)趣旨がわかりません。もしよろしければご教示いただき、論考を深めるべく、コメントすることにしました。

(1)文明史的大転換について
めいこ氏が「文明史的大転換」に思い至ることができていないとありますが、その「文明史的大転換」つまり参政党のもつ「文明史的大転換」の意義とは何を指すのでしょうか?

後段の引用(タス通信)を合わせて解釈すると「スピリチュアルな存在としての拠り所のようなもの(?)」「信仰の対象(?)」という意味と理解していますが、そういう意味でしょうか?

(2)共有型経済(リフキン氏の著作)について
私はその内容を懐疑的にとらえているため、それが文明史的大転換といわれても今一つ納得ができませんでした。
こういう理想論(善いことをした存在が評価される)は現実に合致してこそ価値があると思いますが、現実とは裏腹でむしろ危険ではないでしょうか。仮にリフキン氏の述べるとおりに社会が変化したとすれば、ビルゲイツのような経済強者は「社会的起業家」となり、「温暖化防止・SDGs推進・ワクチン推進」など「善いことをなす存在」
として社会に浸透することになりますし、じっさいに現在進行形でそうなっています。この動きを全力で阻止するには、まず、そのヘンな理想論は捨て去るのが良いように思いますが、めいさんはどのようにお考えでしょうか。

以上です。長文になり恐縮ですが、どうぞよろしくお願いいたします。
by kona (2022-06-20 11:50)  

Oneさんから

やはり、意味不明と思われるかたがいらっしゃいましたか。

私の視点はまったく別ですが、めいこさんについての評価はまったく当たっていません。
めいこさんは帰国子女ではなく、ドイツで現役の社会人をやっていらっしゃるようです。
そして、さらに、アナーキストを自称していらっしゃるようで、私は充分に共感しております。
はぐらめいさんは、アナーキストを既存の哲学的尺度で判断していらっしゃるようで、副島さんと近いレベルなのかと思っています。

そういった点で、アナーキスト、アナーキズムを理解するのは難しいのかもしれません。
アナーキストは老荘思想に近く、道家の思想と近似したものがあります。
つまり、孔子以降、淮南子以前といった部分に当たるようです。
東洋思想に明るくないのであれば、アナルコサンジカリストの理解から入るのが容易だと思われます。
アナーキストを理解する一番の資料はイタリア映画「我が青春のフロレンス」を見られることをお勧めします。

by One (2022-06-20 13:10)  

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川喜田二郎著『「野生の復興」デカルト的合理主義から全人的創造へ』(祥伝社 平成七年)の終章です。

(「「デカルト的呪縛」からの解放」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2006-03-23

*   *   *   *   *

 

・・・・・管理社会の中で育った個人主義者は、他人を押しのけてでも自分が上に立ちたいという権力欲の虜になりがちである。親子・夫婦・友人たちとの、もともと持ち合わせた素直な人間らしさよりも、この権力欲を最優先する。そうして、それがもともとの偽らない人間性だと信じ込みたがる。
・・・・・文明の毒気に当てられてもけっして崩れない、鍛えられて逞しい素朴人を、いかにして育て、保護するか・・・
・・・・・(自分にとって未知なひと仕事を、白覚的に達成することによって、人の心は)この世が瑞々しく見えてくる。青春が甦る。
 馥郁たる香りがどこかから匂い、万物に愛と不思議を感ずる。利己心も利他心も、それぞれが大切な大自然からの授かりものと感ずる。どんなに状況が変わっても、その状況の中で主人公でいられる。しかも「私は山川草木のひとつである」という、言いしれぬ謙虚さを覚える。
 自分のことを、ごく当たり前の人間だと感ずる。たとえば、死ぬことはひじょうに怖い。なぜなら、もともとそう怖れるようにこの世に送り出されたからである。ただ、死ぬのは怖くても、そのくせあまり生命に執着していない。   
 それはどうやら、自分が死んでも、私を包んでいた大きな伝統体は、まだまだ生き続けていてくれるからである。
 なんと、これが安心立命というものに近いのかもしれない。
 ただ、私が今ハッキリ言えることは、誰もがあのヘゲモニズム(常に他より上を目指してやまない覇権主義)の地獄から抜け出し、それぞれに安心立命を得た方がよいということである。
 このような内面体験の一つの大きな特色は、もはや「自我」という固い観念の穀を内側から叩き破って、広い世界の自由で新鮮な空気を深々と呼吸していることなのである。
 「自我」ではなく、知・情・意いずれをも備え、肉体そのものである「己れ」として生きている。
 しかもその「己れ」は、そう自覚した方がよい場面でだけ存在するのであって、それが必要でなくなったら、いつでも「己れ」を退場させてしまう。つまり「己れ」は実体ではないのであって、方便として存在するだけなのである。     
 眠くなったら、「己れ」などなくなってしまう。仕事に打ち込んだら無我の境地になる。彼女に首ったけになったら、我を忘れる。何かの使命を感じたら、献身をも恐れない。こういったことは、誰でもよく知っているではないか。
 ならば、それを正直に受け容れたほうがよいのではないか。        
 文明は不幸なことに、方便としてしか存在しない「自我」という観念を、何か固定した実体のように錯覚させてしまった。そうして、それによって、一方では「自我」の消滅におぴえつつ、他方では留まることをしらぬヘゲモニズムという奇形児を生んでしまったのではないか。

 


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kona

詳細なご返答をありがとうございます。興味深く記事を拝見させていただきました。私自身も今日の記事を踏まえて再度いろいろ考えてみました。以下の点、ご高覧いただければ幸いです。

(1)参政党について
めいさんの文明史的大転換の意味内容は把握できました。それでは、めいさんは、参政党が「文明史的大転換」にどう関係していると考えていらっしゃいますか?※なお私は参政党の支持者ではありません。めいこ氏の支持者でもありません。

(2)文明史的大転換について
私はめいさんとは論を異にします。文明史的大転換が起きない、実際にその兆候も見受けられないと思います。
【2‐1】オカネ観
金融経済が崩壊する、だから実物経済に戻るというのは単に「元に戻る」だけの話で文明レベルの話ではないように思います。金融経済も実物経済もどちらにしてもそれは、2000年のうお座の範疇にある「単なる社会制度」にすぎないのではないでしょうか?
オカネ観の変容も疑問です。たとえばビルゲイツ(経済強者)はオカネ観を変えましたでしょうか?現状は何も変わっていないように思います。また、所有権概念の相対化がその変容に含まれるのならば、超管理社会が現前に迫っている現状とすればそれは「危険」のほうが大きいのではないでしょうか。

【2-2】動物虐待
動物虐待を一例に挙げます。飼育放棄や殺害などの動物虐待はニュースになりますが、それよりなにより、目に見えない動物虐待は絶賛拡大中で、良い兆候など微塵もありません。私は犬を飼い始めたころ、あまりの不自然な業界に驚嘆しました。

いったん子犬を飼い始めるとマイクロチップ・ワクチン・去勢避妊・ドッグフードなどありとあらゆる手段で体力を奪っていきます。
これはこの業界で標準化されており、その呪縛から逃れるのは至難です。その結果、世の中には本当に驚くほど不健康そうな犬が溢れています。こういうのを「動物虐待」と私は思うのですが、違いますでしょうか?

「子犬のうちに去勢避妊しないと不健康になる」なんて騙される人がいるの?と思っていると、周囲の犬の9割以上が去勢避妊手術済みです。コロナワクチンの洗脳そっくりです。飼い主は皆「いいことをしている」と思っており、救いようがないです。現状が改善される「舵の先端だけ」でも見つけたいところですが、その見込みは絶望的にありません。支配される側はきつい洗脳にかかっていますし、支配層は強欲なままです。これでどうして文明の転換が起こるのですか?むしろ事態は悪化しているのではないですか?

動物業界に限らず、社会のどの側面で見ても、現状は似たようなものです。大変残念なことですが、管理社会(ディストピア)まっしぐらで、悲観的な将来像のほうが(私の実生活での肌感覚では)強まっているように思います。

(3)共有型経済について
めいさんの見解には、この点、意見を異にします。優越意識が諸悪の根源かどうかは私にはわかりませんが、仮に優越意識が諸悪の根源だとしても、それは人間の持つ生来の性質で、そんな簡単に昇華できないように思います。

それはそれとして、少なくともリフキン氏の考え方は、美辞麗句を連ねた理想論で、新手の文化大革命(超管理社会への扇動)につながる危険性があるように思います。
実際の運用段階ではあらぬ方向にもっていかれる危険性があります。たとえば「いちだんと大きな比喩的家族や相互依存」とは具体的に何でしょうか?本当にその考え方が必要でしょうか?

「家族は家族、他人は他人」で誰も困りません。「いいですか~、他人も大きな意味では家族ですよ、家族として扱いましょう、団結しましょう」は「偽善」をはらみます。解釈のありようでいくらでも悪用できてしまいます。
社会で共感されているという錦の御旗に隠れて「優越意識(支配意識)」がのさばる姿しか想像できません。たとえば伝統的家族を解体し、愛ある存在(=社会的起業家が運営する収容所)に子供たちを団結(強制収容)することも可能です。なにせ社会的事業家は、「善いことをする存在」なんですから、なんでもありですよね。

「善いことをしている」と思っている集団が一番の狂気をはらむという例は歴史上、枚挙にいとまがありません。優先意識が共感によって昇華されるという保証はどこにもないのですから、それぐらいなら現状の枠組みのほうが対応策も見つけやすいですし、マシなのでは・・・と私は思います。
by kona (2022-06-21 12:32) 

めい

konaさんへ

返信を今日の記事にしたところです。→https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2022-06-22
by めい (2022-06-22 05:00) 

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