新・mespesadoさん講義(137)「学説」と「行動原理」のちがい [mespesado理論]
昨日の「mespesadoさんとsuyapさんの間」のつづきです。「学説」と「行動原理」のちがいがよくわかりましたた。《私にはどちらも「なるほど」なのです。》と書いたのですが、それでよかったようです。
* * * * *
814:suyap :2022/03/27 (Sun) 19:28:33
>>802 mespesadoさん
長~いお返事の要約は、最後のセンテンスに凝縮しているかと思います:
>他人と判断が異なる場合は~略~より「普遍的な結論」を獲得したくなります。
普遍がなんぞやうやむやになっている状態で、普遍を求めるとはこれ如何に?
目の前で人が倒れた。さあ、どうしますか?
1.即座に急変時のCAB(昔はABC)を発動してファーストエイド始動
2.知らない人だし自分で手を出すのは怖いし、とりあえず誰かに助けを求める。
3.見なかったことにして通り過ぎる。
こんな事態に普遍は求められないし、そのとき自分が選んだ解が生んだ結果を一生背負って人は生きるのですから、結果がどうであれ、どの解もそれなりに〇です。
すべての事柄について、私はいつもそんなつもりで生きています。
>自分の考える客観性に照らし合わせて十分と思えないような両論が論争に
>なっている場合は、私の場合は、いずれの立場にも立つことができず、
>判断を保留する、ということになります。
↑↑
この場合は、「判断保留」がmespesadoさんの立ち位置、主張、判断です。そして将来その結果を被ります。
815:mespesado :2022/03/27 (Sun) 19:51:51
>>814
私が「態度を保留する」と言ったのは、「学説」やある事象に対する「事実認定」に対する賛否の場合の話であって、例えば「邪馬台国論争」については、私はどこであるか、という問題については態度を保留しています。それに対して、学説のようなものでなくて、現実の事件などが発生した場合に何らかの行動を取るときは、もちろん「態度を保留する」ことはできないので、自分で最も合理的だと判断する行動を取ります。
ですから、「目の前で人が倒れた」場合は、これは学説ではなく「何らかの行動を取る場合」の話ですから、学説に対する態度とは、判断基準というか、行動原理はまた別です。むしろ、学説に対する態度と行動に対する原理が「同じ」であることの方が「ありえない」です。
816:mespesado :2022/03/27 (Sun) 20:06:12
>>815
例えば suyap さんが >>814 で掲げた例ですと、その人が自分が何か行うことによって助かる可能性があるが、失敗しても命に別条がなさそうだと思われれば 1 を採用し、自分には適した対応を取ることが無理そうで、結果に責任を負えそうもなければ 2 を採用する、といった判断になるでしょう。更に言えば、自分が何か別の用事で現地に行く予定だった時にそういう場面に遭遇した場合は、自分の用事との重要度を天秤にかけて判断することになるでしょう。例えば、自分の家族が急病になり、自分が直ぐに行かないと大変なことになるような場合なら、出来るだけ 2 を採用しようとしますが、それがどうしても無理なら 3 を採用せざるを得ないと判断する、というように。このような「行動原理」と、学説に対する「自分が十分肯定するのも否定するのも納得できない説には賛否の表明を保留する」こととは直接関係がなく、これらは「両立できる」から問題は無いと考えています。
823:mespesado :2022/03/27 (Sun) 21:04:15
>>819
> 現行のウクライナにおける露軍の「特別作戦」に対する見解は、明らか
> に学説ではないでしょう。
いえ、私によっては「学説」です。ただし、現状がどうであるかという学説のもとで、じゃあ、日本や自分自身がどういう行動を取ったらよいか、というのは、上記の「学説」を踏まえた上での「行動原理」になりますから、それはまた別の原理で考えることになります。
> 救急法を教える立場からは、残念ながら1以外の解はブー、論争の余地は
> ありません。
それは「ポリコレ」ですね。自分の家族と見ず知らずの人の命とどちらが大切か、という別の要素が入ってくれば、行動原理としては「救急法」が何だろうが、それを超越する。少なくとも私にとっては家族の方が見ず知らずの人間より大切ですから、状況によっては 3 を選び、多分それで後悔することは無いと思います。
さて、これよりもっと微妙な問題を含む例で、私の「学説」と「行動」に関する原理を説明したいと思います。ワ○チ○を打つか打たないか、それから、イベルメクチンを使うか否か、という問題です。
この問題は、ある(注射を含む)投薬について、危険な要素があれば服用しない。逆に危険な要素が原理的には無く、効果がほぼ確実にあるなら服用する、というのが私の「行動原理」です。ところが、この行動原理において、当該薬品が「危険」か「安全」か、という問題は、もろに「学説」の問題です。つまり、この場合は suyap さんがウクライナ問題に対して日本や自分がどういった行動を取るか、という問題と同じく、両者のハイブリッドな例題となっています。
まず、マスコミの情報については、人口削減を狙うDSの話がある以上、マスコミや政府の言うことを鵜呑みにできるわけが無い事は明らかです。そもそも彼らはメカニズムに立ち入った説明すらしないのですから、もともと無理です。そして、ワ○チ○の副反応で厚労省のデータによると何人の死亡者が出ているという情報については、論理的に過小評価こそあれ過大評価はないはず、という論理に従いますが、「因果関係」が「証明」されていないので、私にとっては「決定打」にはなりません。しかも、仮に因果関係が確かに存在するとしても、公表されている確率は非常に低いので、確率統計的にはほぼ安全である、ということになってしまうからです。私にとって決定打なのは、mRNAが体に作用する作用機序です。これが細胞に取りつくと、キラー細胞が自分の細胞を攻撃すること、加えてスパイクタンパク自体が毒性を持つという報告があることとそれが血栓症を引き起こすというデータと整合性がある、という「機序」が私にとっては決定打であり、「統計数値」は参考でしかありません。イベルメクチンの作用機序についても同じです。なので、私の「説」としては、ワ○チ○やイベの現時点で明らかにされている作用機序が、納得している「説」であり、その説を踏まえて、ワ○チ○は危険だから打たない、イベルは安全で予防効果もあるので熱が出たり感染率が高まっている時期に人が多く居る場所に行くときに服用する、というのが私の「行動原理」になります。
また、他人に対する忠告という「行動」の「行動原理」は更に複雑な要素が絡んできて、既にワ○チ○を打ってしまった人に追加接種を思いとどまらせるかどうかは微妙であり、もし本当のことを知ってしまうと、既に打ってしまったことがショックで、精神的にダメージを受けて症状が出てしまうこともあり得るからです。また、コロナ脳バリバリのアカの他人に対しては、危険を論理的に説明しても狂人扱いされて、聞く耳を持たれないどころか変なことを言う変人扱いされ、その結果、他の話題に対しても信用を失って、かえって他の問題にも支障をきたす、というケースもありえます。その場合は、残酷ではあるけれど、やむを得ず「余計なお世話」をせず、何もしない、という「行動」に出ることもあり得ます。
以上、私の「説」と「行動原理」に関する例え話かつリアルなお話でした。
>>802 mespesadoさん
長~いお返事の要約は、最後のセンテンスに凝縮しているかと思います:
>他人と判断が異なる場合は~略~より「普遍的な結論」を獲得したくなります。
普遍がなんぞやうやむやになっている状態で、普遍を求めるとはこれ如何に?
目の前で人が倒れた。さあ、どうしますか?
1.即座に急変時のCAB(昔はABC)を発動してファーストエイド始動
2.知らない人だし自分で手を出すのは怖いし、とりあえず誰かに助けを求める。
3.見なかったことにして通り過ぎる。
こんな事態に普遍は求められないし、そのとき自分が選んだ解が生んだ結果を一生背負って人は生きるのですから、結果がどうであれ、どの解もそれなりに〇です。
すべての事柄について、私はいつもそんなつもりで生きています。
>自分の考える客観性に照らし合わせて十分と思えないような両論が論争に
>なっている場合は、私の場合は、いずれの立場にも立つことができず、
>判断を保留する、ということになります。
↑↑
この場合は、「判断保留」がmespesadoさんの立ち位置、主張、判断です。そして将来その結果を被ります。
815:mespesado :2022/03/27 (Sun) 19:51:51
>>814
私が「態度を保留する」と言ったのは、「学説」やある事象に対する「事実認定」に対する賛否の場合の話であって、例えば「邪馬台国論争」については、私はどこであるか、という問題については態度を保留しています。それに対して、学説のようなものでなくて、現実の事件などが発生した場合に何らかの行動を取るときは、もちろん「態度を保留する」ことはできないので、自分で最も合理的だと判断する行動を取ります。
ですから、「目の前で人が倒れた」場合は、これは学説ではなく「何らかの行動を取る場合」の話ですから、学説に対する態度とは、判断基準というか、行動原理はまた別です。むしろ、学説に対する態度と行動に対する原理が「同じ」であることの方が「ありえない」です。
816:mespesado :2022/03/27 (Sun) 20:06:12
>>815
例えば suyap さんが >>814 で掲げた例ですと、その人が自分が何か行うことによって助かる可能性があるが、失敗しても命に別条がなさそうだと思われれば 1 を採用し、自分には適した対応を取ることが無理そうで、結果に責任を負えそうもなければ 2 を採用する、といった判断になるでしょう。更に言えば、自分が何か別の用事で現地に行く予定だった時にそういう場面に遭遇した場合は、自分の用事との重要度を天秤にかけて判断することになるでしょう。例えば、自分の家族が急病になり、自分が直ぐに行かないと大変なことになるような場合なら、出来るだけ 2 を採用しようとしますが、それがどうしても無理なら 3 を採用せざるを得ないと判断する、というように。このような「行動原理」と、学説に対する「自分が十分肯定するのも否定するのも納得できない説には賛否の表明を保留する」こととは直接関係がなく、これらは「両立できる」から問題は無いと考えています。
823:mespesado :2022/03/27 (Sun) 21:04:15
>>819
> 現行のウクライナにおける露軍の「特別作戦」に対する見解は、明らか
> に学説ではないでしょう。
いえ、私によっては「学説」です。ただし、現状がどうであるかという学説のもとで、じゃあ、日本や自分自身がどういう行動を取ったらよいか、というのは、上記の「学説」を踏まえた上での「行動原理」になりますから、それはまた別の原理で考えることになります。
> 救急法を教える立場からは、残念ながら1以外の解はブー、論争の余地は
> ありません。
それは「ポリコレ」ですね。自分の家族と見ず知らずの人の命とどちらが大切か、という別の要素が入ってくれば、行動原理としては「救急法」が何だろうが、それを超越する。少なくとも私にとっては家族の方が見ず知らずの人間より大切ですから、状況によっては 3 を選び、多分それで後悔することは無いと思います。
さて、これよりもっと微妙な問題を含む例で、私の「学説」と「行動」に関する原理を説明したいと思います。ワ○チ○を打つか打たないか、それから、イベルメクチンを使うか否か、という問題です。
この問題は、ある(注射を含む)投薬について、危険な要素があれば服用しない。逆に危険な要素が原理的には無く、効果がほぼ確実にあるなら服用する、というのが私の「行動原理」です。ところが、この行動原理において、当該薬品が「危険」か「安全」か、という問題は、もろに「学説」の問題です。つまり、この場合は suyap さんがウクライナ問題に対して日本や自分がどういった行動を取るか、という問題と同じく、両者のハイブリッドな例題となっています。
まず、マスコミの情報については、人口削減を狙うDSの話がある以上、マスコミや政府の言うことを鵜呑みにできるわけが無い事は明らかです。そもそも彼らはメカニズムに立ち入った説明すらしないのですから、もともと無理です。そして、ワ○チ○の副反応で厚労省のデータによると何人の死亡者が出ているという情報については、論理的に過小評価こそあれ過大評価はないはず、という論理に従いますが、「因果関係」が「証明」されていないので、私にとっては「決定打」にはなりません。しかも、仮に因果関係が確かに存在するとしても、公表されている確率は非常に低いので、確率統計的にはほぼ安全である、ということになってしまうからです。私にとって決定打なのは、mRNAが体に作用する作用機序です。これが細胞に取りつくと、キラー細胞が自分の細胞を攻撃すること、加えてスパイクタンパク自体が毒性を持つという報告があることとそれが血栓症を引き起こすというデータと整合性がある、という「機序」が私にとっては決定打であり、「統計数値」は参考でしかありません。イベルメクチンの作用機序についても同じです。なので、私の「説」としては、ワ○チ○やイベの現時点で明らかにされている作用機序が、納得している「説」であり、その説を踏まえて、ワ○チ○は危険だから打たない、イベルは安全で予防効果もあるので熱が出たり感染率が高まっている時期に人が多く居る場所に行くときに服用する、というのが私の「行動原理」になります。
また、他人に対する忠告という「行動」の「行動原理」は更に複雑な要素が絡んできて、既にワ○チ○を打ってしまった人に追加接種を思いとどまらせるかどうかは微妙であり、もし本当のことを知ってしまうと、既に打ってしまったことがショックで、精神的にダメージを受けて症状が出てしまうこともあり得るからです。また、コロナ脳バリバリのアカの他人に対しては、危険を論理的に説明しても狂人扱いされて、聞く耳を持たれないどころか変なことを言う変人扱いされ、その結果、他の話題に対しても信用を失って、かえって他の問題にも支障をきたす、というケースもありえます。その場合は、残酷ではあるけれど、やむを得ず「余計なお世話」をせず、何もしない、という「行動」に出ることもあり得ます。
以上、私の「説」と「行動原理」に関する例え話かつリアルなお話でした。
【追記 3.31】
831:mespesado :2022/03/27 (Sun) 22:50:44
>>830
> 真反対の方向から「理」詰めで攻めこんでくるOやMのおっさんたち、も
> う好きにしといて。私は大筋の流れをファクトと自分の感でつかんで行
> 動できればOK.
OBさんはともかく、私は「真反対」でもないと思うけどなぁ
「学説」の真贋を定めるのは、あくまで「理」だと思うんですよね。ただし、オフィシャルな文献にこう書いてあるから真だ、ということにはならず、登場人物の過去の言動などの付帯状況によって、疑わしい部分がある、というようなケースがあるので、その場合真偽は完全には分からず、単に程度問題(と言っても常に五分五分という意味じゃなくて、ほとんど明らかに真又は偽ということはありえます)だと思うんですよね。OBさんと suyap さんの議論を読むと、OBさんの主張は「こう書いてあるから真だ」に近い。対する suyap さんの方は、付帯状況を考えていて、より分析が詳細である、という印象はあります。いずれにせよ、「理」で考えても、真か偽の両端にスパッと決まるとは限らず、程度問題として真と偽の間のどこかに定まる、という感じです。
これに対して、ある行動を取る際の「行動原理」の方は違います。これは「理」で定まるようなものじゃない。それこそ自分の価値観が現れるところなのですから、まさに、suyap さんがおっしゃるように、
> 大筋の流れをファクトと自分の感でつかんで行動できればOK.
ということで正解だと思います。ですから、ここは各人によって結論は違ってよい。それに対して、「学説」の「真贋」については、人によって結果が違うというのは本当はオカシくて、真か偽という極端に明快な証拠がある場合はむしろ珍しく、程度問題というレベルでしか決まらないことの方が多いですが、しかし人によって(その程度問題としての)答ですら見解が異なるということが無い、もっと「絶対的」なものだと私は思っていて、それを判定するのはあくまで「理」だと思っています。
>>830
> 真反対の方向から「理」詰めで攻めこんでくるOやMのおっさんたち、も
> う好きにしといて。私は大筋の流れをファクトと自分の感でつかんで行
> 動できればOK.
OBさんはともかく、私は「真反対」でもないと思うけどなぁ
「学説」の真贋を定めるのは、あくまで「理」だと思うんですよね。ただし、オフィシャルな文献にこう書いてあるから真だ、ということにはならず、登場人物の過去の言動などの付帯状況によって、疑わしい部分がある、というようなケースがあるので、その場合真偽は完全には分からず、単に程度問題(と言っても常に五分五分という意味じゃなくて、ほとんど明らかに真又は偽ということはありえます)だと思うんですよね。OBさんと suyap さんの議論を読むと、OBさんの主張は「こう書いてあるから真だ」に近い。対する suyap さんの方は、付帯状況を考えていて、より分析が詳細である、という印象はあります。いずれにせよ、「理」で考えても、真か偽の両端にスパッと決まるとは限らず、程度問題として真と偽の間のどこかに定まる、という感じです。
これに対して、ある行動を取る際の「行動原理」の方は違います。これは「理」で定まるようなものじゃない。それこそ自分の価値観が現れるところなのですから、まさに、suyap さんがおっしゃるように、
> 大筋の流れをファクトと自分の感でつかんで行動できればOK.
ということで正解だと思います。ですから、ここは各人によって結論は違ってよい。それに対して、「学説」の「真贋」については、人によって結果が違うというのは本当はオカシくて、真か偽という極端に明快な証拠がある場合はむしろ珍しく、程度問題というレベルでしか決まらないことの方が多いですが、しかし人によって(その程度問題としての)答ですら見解が異なるということが無い、もっと「絶対的」なものだと私は思っていて、それを判定するのはあくまで「理」だと思っています。
2022-03-28 04:26
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コメント(1)
【追記 3.31】
mespesadoさんによる「学説」と「行動原理」のちがいについての整理
by めい (2022-03-31 03:39)