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新・mespesadoさん講義(130)『人間の建設』を読んで [mespesado理論]

名著の誉れ高い『人間の建設』での岡博士のお話を、ここまで突っ込んで解読した例はこれまであったのかどうか。どんなに難しくても、時間をおきながら繰り返し何度も読むことで少しずつわかってくる、mespesado理論の真骨頂です。根底において「明晰」なのです。

*   *   *   *   *

858:mespesado :2022/02/23 (Wed) 15:35:17
 このスレでも話題になっているので、早速、岡潔と小林秀雄の『人間の建設』を買って読み始めました。
 本文147頁のうち、まだ最初の42頁までしか読み終えてませんが、ここまでの段階でちょっと感想を書きたくなりました。
 亀さんがブログで紹介していた動画での解説にもあるように、岡さんは、「個性」というものについて、自分が意識的に自己主張をして作ったモノは個性とは認めない、そうでなくて、それは鑑賞する人にとっても「自然」なものである必要があって、そのような真の知性に基づくモノであるべきで、「個性」というものは、意図的(わざとらしい、という意味で)ではない、自然に表出するものとして存在するのだ、というような趣旨のことを述べておられるように思いました。
 私も専攻が数学で、岡さんの業績をある程度知っていましたから、岡さんがこのような考え方を持っていることはすごく納得感があります。
 岡さんの専門分野は「多変数複素解析学」という解析学の一分野で、ちなみに私の専攻も「解析学」でした。但し、同じ解析学と言っても「関数解析」という専攻分野だったので、そこは少し違います。で、「解析学」というのは、端的に言うと、「数」の世界の「関数」という数学的対象の性質を究明する分野なのですが、その中の「複素解析学」というのは、いわば最も「自然」な関数を研究対象とする分野なわけです。数学で言う「自然」というのがどういう意味なのかよくわからないと思うので、イメージ的に説明すると、例えばここに、紙に書かれた図形があって、その図形の下半分が別の紙で覆われて隠されているとします。で、上半分の見える部分に上に弧を描いた正確な「半円」が見えているとします。その場合、隠された下半分にどんな図形が描かれているか、と聞かれたら、「下に弧を描いた半円」が隠れていて、上下を併せると、きれいな円が描かれている、というのが最も「自然」な答ですよね。ところがこれに対して、覆っている紙をどけたら、なんと、下に尖ったV字が描かれていて、実は雫を上下逆さに描いた絵が描かれていたんだよ、という答だったとしたら、何か「不自然」で騙されたような気がするでしょう。しかし、これだって、れっきとした図形であることに変りはないわけですし、この例でいう上半分が半円だったら全体が円である場合だけを考える、というような解析学が「複素関数論」であり、雫型であろうが何であろうが図形なら何でもOKよ、という立場が一般の「解析学」で、私が専攻した「関数解析」というのは、どちらかというと後者に近いものがあります。
 さて、この岡さんの専門分野である複素解析学の世界における研究における「関数」の性質というのは、一部を決めるとすべてが「自動的に」決まってしまう。言い換えると、人間が勝手に好きなように決める、ということができなくて、その自動的に決まってしまう関数の性質を一生懸命に頭を使って調べる、というタイプの学問です。ただし、その調べ方、アプローチには個々の数学者の個性が出て、様々な「手法」が出てくる。こういった分野で長年研究を続けてきた岡さんが語る上記のような「個性」論というのは、まさに、この「複素関数論」の世界そのもの、という気がしています。
 ところが、これに対して私が専攻した「関数解析」というのは、日本人も大いなる貢献をしては来たけれど、主としてリードしてきたのはフランスの数学者たちです。そして、フランスと言えば「Ce qui n'est pas clairen'est pas francais.(明晰ならざる者はフランス的に非ず)」の国。数学の世界も同じで、フランス数学はとにかく明晰をモットーとするのですが、どこか「人為的」なニオイがする。関数解析も、めちゃめちゃ明快だけれども、すごく「人為的」な世界です。上半分が半円で下半分がV字型でも全然かまわない、それが「自由」だ!といわんばかりの数学です。そして、このフランス流の「関数解析」というのは、『人間の建設』でも岡さんが述べておられた「内容のない抽象的な概念」(25頁)がバンバン飛び出して来て、口の悪い数学者はこれを「ジェネラルナンセンス」とこき下ろしていましたけれど、岡さんは、こういう数学も見ていますから、上のような感想を持ったのだろうな~、と納得するところがあるのです。
 さて、こういう意見を持ち、また偉大なる業績を持つ岡さんですが、この本を手にする前までは、何となくこの岡さんのような考えにどこか違和感というか、すなおに敬服するという気持ちになれないなぁ、と思う部分があり、それは一体どの部分をそう感じていたのか今一つはっきりしなかったのですが、38頁以降の、「数学基礎論」とよばれる数学の一分野に踏み込んだ意見を読んだところで「なるほど!そこか!」と腑に落ちたところがあるのです。長くなったので分けます。 (続く)

859:mespesado :2022/02/23 (Wed) 23:12:57
>>858
> 岡 われわれの自然科学ですが、人は、素朴な心に自然はほんとうにあ
> ると思っていますが、ほんとうに自然があるかどうかはわからない。
> 然があるということを証明するのは、現在理性の世界といわれている範
> 疇ではできないのです。(38頁)

↑ここまでは「数学」ではなく、「自然科学」の話だからよいのです。
 しかし、そこから「数学」の話に入ると…

> 自然があるということだけでなく、数というものがあるということを、
> 知性の世界だけでは証明できないのです。数学は知性の世界だけに存在
> しうると考えてきたのですが、そうではないということが、ごく近ごろ
> わかったのですけれども、そういう意味にみながとっているかどうか。
> 数学は知性の世界だけに存在しえないということが、四千年以上も数学
> をしてきて、人ははじめてわかったのです。数学は知性の世界だけに存
> 在しうるものではない、何を入れなければ成り立たぬかというと、感情
> を入れなければ成り立たぬ。ところが感情を入れたら、学問の独立はあ
> りえませんから、少なくとも数学だけは成立するといえたらと思います
> が、それも言えないのです。

 これはおそらく20世紀の初めに起きた、「数学の危機」のことを指しているのかと思います。数学の危機とは、数学の世界で当たり前に許されていると思われていた概念(その中心概念は「集合」という概念ですが)だけを使った数学の議論の中で矛盾が生じてしまった(有名なものに「ラッセルのパラドクス」というのがあります)という事件があり、その矛盾を防ぐための試みがどうにもうまくいかない。そこで、数学概念の「存在」を証明するのが無理なら、数学における諸概念の存在を保証することは諦めて、せめて数学で使える論法に一定の制約条件を置くことによって、数学の推論で矛盾が生じないことだけなら保証できるだろう、と考えて、多くの数学者が研究したところ、実は、いかなる制約条件を設定しても、その制約条件のもとでの数学の無矛盾性を証明すること自体がそもそも不可能であることが「数学的」に証明されてしまった(ゲーデルの不完全性定理)という事件を指していると思われます。
 上記の引用箇所の最後にある「感情を入れなければ成り立たぬ」というのは、以上のような「数学の基礎付け問題における絶望的状況」に対する岡さんの一解釈ですが、これは岡さんだけの意見ではなく、表現の仕方こそ違えど数学の論文にはなっていない(そもそもこんな「感情」論は数学の論文になり得ませんし)ものの、当のゲーデルをはじめとする多くの数学者の(非公式な)意見になっているようです。
 しかし、私はこのような意見に対しては異議があります。そもそも数学というのはそれ単体として学問的には閉じていますが、他の多くの学問分野における有用なツールとしても用いられていて、それらの学問分野には固有の仮説があるのは当然としても、そこで用いられる数学の定理は「絶対的に真」なものとして使われているハズです。それなのに、その数学の定理が「感情を入れなければ成り立たぬ」というような、人間の感情のような未解明なものに依存し、機械的な客観性を持たない「不確かなもの」に過ぎない、と言われた日には、「そんな無責任な!」と怒られてしまうのではないでしょうか。それこそ、私が大学生の時の論理学の講義で教授が話していたジョークではないですが「ある国でロケットを設計して、いざ飛ばそうとしたら飛ばなかった。色々原因を調べたところ、数学が矛盾していたからだった。」なんてことがあったのでは堪りませんw
 それじゃあ、本質を突いた数学の基礎付けはどう考えるべきなのか、と言われると思いますが、この手の問題に対しては、ドイツの研究者であったゲンツェンが示した方向性が本質を突いていると思っています。彼は、2千年以上前のアリストテレス以来ほとんど進展が無かった「論理学」が、19世紀にフレーゲによって近代化したものの、その近代的な論理学の各推論がなぜ「正しい」のかという問題について、そもそも問題意識さえされていなかったのを、「なぜ論理学で昔から許されてきた推論は正しいのか」という問題を人類史上初めて可視化して定式化することに成功した人です。ですから、「論理学」の延長線上にある「数学」についても、このまま研究を進めていっていれば、かなり本質を突いた数学の基礎付けまで到達できたのではないかと期待されたのですが、残念なことに、ゲンツェンは第二次大戦で、35歳の若さでプラハの捕虜収容所で死んでしまいました。
 さて、私が言いたかった真髄ですが、岡さんが述べている数学の本質とは、決してフランス数学のような「人工的な明晰さ」に求めるべきではなく、もっと「自然」なものであるべきである。しかし、私の意見としては、それは決して「感情を入れなければ成り立たぬ」というような、人間の「感情」に訴えるような方向性で解決すべきではなく、もっと「機械的」というか「無機的」に定式化されて、真の意味で「客観的」で「絶対的」な正しさが保証されるべきものだと思っているのです。
 そして、これも私の単なる意見ですが、「数学」を「文化」になぞらえるなら、「明晰だが不自然に人工的」なフランス数学は、西洋文化の特徴であるポリコレみたいなものに見えます。一方、岡さんが本質だと考える「複素関数論」のような「一部によって全体が自動的に定まってしまう」ような世界で何が成立するのかを調べていくタイプの数学は、日本人が得意とする職人芸的世界、すなわち「駒の動きが細かく、世界で一番奥が深いと思われる日本将棋の世界」、あるいは「職人の技術を吸い上げてロボットに技術を引き継ぐ日本の精密加工技術」に対応しているように見えます。しかし、数学の基礎付けのような世界は、日本人が得意とするような「既に長年の経験から来る自然なベースと見做されている土台が与えられている中で本質を追求する」ような世界ではなく、むしろ西洋科学のような「そもそものベース自体から改めて考え直す」べき問題であり、しかし、同じく西洋文化に特徴的な、表層的なポリコレのような「見た目の明晰さ」に惑わされないように注意しなければならない、という世界のような気がしているのです。これは、政治・経済の分野において「日本会議」が西洋の浅いポリコレのような世界は否定しつつも、経験的な自然さは自明の前提にした「あるべき姿」にこだわる余り、客観性を犠牲にし過ぎて論理的な誤りに陥っている部分もあることに違和感を感じたのと類似の感想ではありますが、数学であろうが政治・経済であろうが、分野を超えて、同じような構図があるような気がしてならないのです。


860:亀さん:2022/02/24 (Thu) 08:01:35
mespesadoさん、>>858および>>859という、大学で数学を専攻した者ならではの貴重な投稿、ありがとうございました。実は小生、旧ブログで数学に関する記事を書いていますが、mespesadoさんの投稿を読み、穴があったら入りたくなりましたw
幾何学のすすめ
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2009/07/post-f12f.html

それはともかく、仰せの論理学はもとより、物理学、科学、工学、果ては人文学であるはずの経済学にまで登場する数学、漠然と乍ら「真理」あるいは「不変」といったイメージを、勝手に小生は今まで抱いていました。

しかし、今回のmespesadoさんの玉稿に目を通したことにより、愚生の数学への見方がガラガラと音を立てて崩壊・・・。これは、かつて量子力学に出会った時以来の体験となりました。

「数学であろうが政治・経済であろうが、分野を超えて、同じような構図」と、>>859の結語で述べておられたように、今の世は、まさに量子力学的、カオスの時代に突入した感が強いですね。

亀さん@人生は冥土までの暇潰し

861:mespesado :2022/02/24 (Thu) 09:38:42
>>860
> 幾何学のすすめ
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2009/07/post-f12f.html

 今回リンク先を改めて読ませていただきました。「穴があったら入りたくなりました」なんてとんでもない。小室直樹さんがこのような視点を持っておられることを今回初めて知ることができました。大感謝です!
 ここで引用しておられる小室氏の主張こそが、私が考えている「西洋学問」の「善いところ」に他なりません。まさにギリシャの数学で、ここの記事で主題になっているギリシャの幾何学は、「ユークリッドの公理系」でよく知られているように、数学の推論を、これ以上遡って証明できない「公理」から始めて純粋に論理的な演繹「だけ」を使って幾何の定理を証明するというスタイルで、まさに西洋文明が発明した偉大な業績だと思います。実は江戸時代かなんかに、このユークリッドの公理系と、今日では論理学の一部になっている「公準」が日本に入ってきた時、それを見た日本のインテリたちが、その「公準」として「同じものに等しいものは、互いに等しい」とか「同じものに同じものを加えた場合、その合計は等しい」などと書かれているのを見て「西洋の学者は、そんな当たり前のことをわざわざ書物に書いているのか(呆)。彼らの学問なんて大したことないな」と嘲笑したとか。日本人が、「一見自明なことに対して、それは本当に自明なのか、もっと自明なベースとなる事実があって、そこから論理的に演繹することができるのではないか、ということを探求するようなタイプの議論には興味を持たず(というか、その意義がわからず)、既に知られていることは自明の前提にして、いかにそれより先を探求していくか、ということにのみ価値を見出す」という特質を持っていることがよくわかるエピソードです。
 岡さんの話は、この「自明の前提にして、いかにそれより先を探求していくか」の部分について、その「それより先」の内容について、「本質を突いた話」と「無明」な話の違いについて深い見識を披露しておられるように思えました。これに対して「自明さを更に探求する話」については、現代の一般的な学者の見解を紹介するにとどまっているように感じられました。
 一方で小室さんは、この引用部分から伺えるのは、西洋の「自明さを後ろ向きに探求する」姿勢に対して諸手を挙げて賛同しながら、一方でそのような姿勢を持たない日本の文化を腐しているように見えます。端的に言えば、「西洋かぶれ」なんですね。でも、じゃあそれが悪いのかというと、確かに日本ならではの文化を軽視しているのは残念なところですけれども、「自明さ」を更に探求することの大切さを力説しているのは素晴らしいと思います。ただ、私が前稿で主張したのは、その西洋の「自明さを後ろ向きに探究する」のはよいけれど、まだ「探求」しきれていない、ということなんです。もっと遡ることができる。ユークリッドの公準で言うなら、「同じものに等しいものは、互いに等しい」のはなぜ?と更に追求していくことを意味します。そこまでくると、ゲンツェン以前の研究者は「そんなの追求しようがないよ」だったのですが、ゲンツェンの定式化により、このような問題が更に追求できるような足がかりができました。ただでさえ「自明さ」を追い求めることに関心が無い先述の日本のインテリのような人にとっては「問題外」な話でしょうが、実はこの追求って、ユークリッド原論だけでなく、現代数学の基礎付けでも同様で、もちろん日本人もさすがにそのような話に「興味がない」ことはないわけですけれど、残念ながら、このような分野に対する「土地勘」が無い。これに対して、西洋人は「土地勘」はあるのでいろいろ議論はされているのだけれど、私の目から見ると、ゲンツェンの掌の中であーだこーだ言っているだけのようにしか見えない。更なる本質を掴もうと思ったら、今一つのブレークスルーが必要な気がするのです。
 以上、世界の賢人に対して不遜な言明であることは重々承知の上で、あえて私見を述べてみました。

862:猿都瑠 :2022/02/24 (Thu) 12:49:33
岡潔師の感情を入れるか否かですが、自分のアプローチは少々違います。
岡潔師は後々に書かれていると思いますが、論理が纏まる直前までは文章で書いていると言われています。
だから感情を入れるか入れないかの結論を言えば、両方必要だと気付いたのではないでしょうか。
教育の情緒という著作を書かれた。
いやそれ以前に教育は感情を廃したならば、全て巧く行くのか。
結局は教育は学問へと進んで行きますから、感情無しで成り立つかどうかと言えば、その場その場で対応を変えねばならない。
だからどっち付かずな曖昧さがあると。
美しい自然は本当にそこにあるのか。
いやそこに美しい自然があると人間が思うから、自然はあるのだ。
まるで美しい地球は人間の為にあるように思える。
とも言われています。
さて自分の結論を言えば、両方必要だと思います。
人類は宇宙空間の地球に存在します。
人類から見れば自分たちがあると思うから存在していると言えます。
しかし人類が無から何かを産み出す能力は無い。
つまり宇宙の意思と言える物の下にある。
高次元の宇宙が必要かどうかを決めている。
何故、人類には感情があるのかとなる。
最近の自分の結論として、無駄な物は一つもないと考えています。
よく感情を排してとか無感情でって人がいますが、外から見ると物凄く感情的なんですね。
感情を排した理論が正しいか否かを考えると、観察者である感情ある人間が存在しない理論の存在意義は何?と思ってしまう。
何故なら、感情を解読して理論化するならば、感情を排して思考する事になる。
だからこそ感情を排したAIが出てきたのでしょう。
しかしAIと言えど感情ある人間が作るので、感情を排した人間擬きには厳密にはならない。
何でなかなか言い切れないかと言えば、量子力学で言う処の不確定性原理があるからですね。
物事がどう転ぶか確率でしか言えないと言いましょうか。
山田廣成氏の「量子力学が明らかにする存在、意志、生命の意味」では電子に意志があるとしています。
人体を構成する電子レベルで意志があるとするなら、感情を排して理論化するのは可能かどうかです。
ならば感情を入れて考えるしかない。
今のコロナ禍も人類のエゴと言う感情剥き出しが引き起こした物です。
つまり、人類は感情の使い方を誤っている事象であるとも言えるでしょう。
宇宙が考える、いや地球が考える、正しい感情を含めた能力を使うことの出来る者だけが、
これからのこの世界に生き残って行くのではないかと思うのです。
これも人類が真の姿に気付く為の魂磨きでもあります。


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