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新・mespesadoさん講義(124)「生きること」の意味 [mespesado理論]

《「エリート意識に基づいた思考停止」》
②公明党議員「世界で人口が増えすぎたら、食料危機になって困る。だから人口をある程度、削減する必要がある」》/WHOテドロス事務局長「killchildren」がホンネ》
③には、噛み合ってくれないOB さんとのやりとりから始まり、私にとって超重要な内容盛り沢山です。
まず、供給過多の社会では、新しい産業自体に対するニーズそのものが無くなっていく》機械では生産できないようなモノやサービスを一生懸命に探し出し、見つけ出さない限り起業できない》。商売に関わるものとして深刻な課題です。コロナ禍は、自分の生業(なりわい)が世の中にそう役立つのかを、原点に立ち戻って考えさせてくれています。
つぎに、「貨幣価値への換算」至上主義をも手放すこと》《「豊かさ」とは「受けるモノやサービスの質と量」であって「所持している貨幣の量」ではない。》もし今使っている「お金」が、この「公平感」を保証してくれないものになり果てたのであれば、我々はお金という手段を捨てなければいけない》「あげたりもらったり」の人間関係のありがたさが、あらためて認識されるようになるような気がします。リーマンショックの頃、こんな文章を書いていました。→「時代の変わり目の中で」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2009-03-25
もう一つの大きなテーマ、中村篤史医師の「しんどい倫理」は、今の世の中深刻な問題提起です。「昔からある倫理だから」といことでそれに従っていればよい時代は過ぎ去った。/従来からの「倫理」だからといって、それにただ従うのではなく、もっと根幹にある「何か」を「見つけて」、というより「気づいて」行動の判断基準にするしかなくなってきているわけですね、今日という時代には。》「生きること」の意味に立ち返って「働くこと」の意味を問う、ということでしょうか。ハンナ・アーレントが頭をよぎりました。→「「活動(action)」「仕事(work)」「労働(labor)」(ハンナ・アーレント)」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2018-07-18
*   *   *   *   *
669:mespesado :2022/02/06 (Sun) 09:53:09
>>668
固定概念を捨てない限り

 まさにそれ!
 ↓ここに出てくる米国のノーベル賞を受賞した有名経済学者の話もエリート主義の誇大妄想狂の皆様へ
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12725317910.html

 ↓ここに出てくる病院の医者の話も
コロナワクチンとヤコブ病2
https://note.com/nakamuraclinic/n/nf27ea353919b

 いずれも、「権威」を持ち、一般人がそれに依存しているはずのエリート達が、過去の常識に囚われて、現実に起きている事実を受け入れられないために起きている悲劇と言うほかない。
 「エリート主義」というよりは、正確には「エリート意識に基づいた思考停止」というべきかもしれない。

849:mespesado :2022/02/06 (Sun) 10:35:22
『ワクチン接種政策は公明党=創価学会の策略?
 ~現職の国会議員が「ワクチンは人口削減」と発言した!~』
https://sekennimonomousu.com/population-reduction-plan/

↑ここで取り上げられている「ワクチンを推進させている公明党の現職の参議院議員である熊野せいし氏の発言」について。

> ある創価学会員の御婦人の方が熊野せいし議員に以下の質問をしました。
「このワクチンを普及させるのは、何でなんですか?」
> その質問に熊野せいし議員が書面で回答したといいます。
> 以下引用抜粋
> 「世界で人口が増えすぎたら、食料危機になって困る。だから人口をあ
> る程度、削減する必要がある」
> 「また、発展途上国で多産多死、多く産んで多く死ぬというのは良くな
> い。だからワクチンを普及させることによって、少産少死、少なく産ん
> で少なく死ぬ。そのようにしたほうがいい。だからワクチンを普及させ
> るんだ」
> このワクチンは若い年代の人たちを不妊症や無精子症にさせる人口削減
> のワクチンである、という話が現実味を帯びたことになります。
> 動画の中では、熊野議員の回答をみたご婦人が以下のように思ったそう
> です。
> 「もう公明党は支持できない。こんな人口削減目的のワクチンを普及さ
> せている公明党を支持できないから創価学会を脱会する」

↑これ、もっと詳しくは、以下の動画↓
https://www.nicovideo.jp/watch/sm39913015

で解説されていますが、この熊野議員の発言と言われるものは、好意的に解釈するならば「感染症で多死(それを補うように多産)な発展途上国に対し、ワ○チ○を普及させて感染症を抑えて少死(それが実現した先進国の経験則によれば少産になる)の方向に持っていきたい」という趣旨で発言したと解釈できると思いました。
 ところが、そういう方向の「弁解」を本人がせず、この発言自体があったということ自体が「デマ」だったという批判しか存在しないことがアヤシイ。やはり、熊野議員がワ○チ○による直接的な人口削減計画を知っていて、うっかりしゃべっちゃった、というのが真相で、それに慌てふためいた推進側が、冷静に上に書いたような弁明をする余裕が無くて、脊髄反射的に「デマだ~」と反応してしまった、ということのようにも思えますね。

 それからもう一つ。昨年の話になりますが↓
WHOテドロス事務局長は本当に「ブースターを使って子どもを殺す国もあるが」と言ったのか?
http://ochakai-akasaka.com/counseling/211224-2/

 テドロス氏が、ついうっかり口が滑って「kill children」と「本当のこと」を発言しちゃった、というお話。それに対して批判者は「children」の「chil...」と言うべきところをうっかりkill...」と発音してしまったので、慌てて「言い直した」のが結果的に「kill children」と発言したかのように聞こえちゃった、というんですが、いや、それはそうだと思いますよ。
 だって、こんなWHOにおける「公的な」発言の場で、「kill children」とホンネを正式に発言するはずがないんですから、言い間違えであることは誰も否定していないんですよね。そうではなくて、「なぜこんな言い間違いをしたのか」という心理面を問題にしているわけで、それこそ本当は「killchildren」がホンネだから、それがついうっかり口に出てしまった、ということじゃないの?と疑われているわけで…。
 まあ、いずれの場合も、発言者の「本当の意図」なんて、誰もわかるわけないんですから、要はこういう「お話」がある、ということさえ世の中に広まれば、ワ○チ○を巡る問題があることが知られるという効果が期待できるので、「ちょっと興味深いお話」ということでジャンジャン広めましょうw

224:mespesado :2022/02/07 (Mon) 01:18:25
>>221
> 働かない人ほど豊かに成る、働けば働く程貧乏になる

というのをどう解釈したら
> ワザワザ今、貧乏に成るのが正解と言いたい貴方の主張

ということになるのか、意味不明。
 単に、「現代日本のような、機械が生産する供給過多の社会では、所得が労働の対価としてしか得られないという従来からの習慣を継続し続けると社会が成立しなくなる」ということの現れの一つでしかないでしょうに。

225:mespesado :2022/02/07 (Mon) 01:42:30
> 働かない人ほど豊かに成る、働けば働く程貧乏になる

↑これについて少々解説をしてみる。
 機械が生産の中心になると、人間の労働はだんだん不要になる。
 これは、一見すると「労働者」にとっての危機でしかないように思うかも知れないが、実は「企業家」にとっても厳しい社会であることに気が付く必要がある。なぜなら、供給不足の世の中では、いろんなモノやサービスに需要があるため、特定の分野で企画立案能力を持つ企業家にはいくらでも自分の才能を生かす場があるのに対し、供給過多の社会では、新しい産業自体に対するニーズそのものが無くなっていくからだ。
 すなわち、機械の生産による供給過多の時代には、カネ儲けをしたい企業家の立場からすると、機械では生産できないようなモノやサービスを一生懸命に探し出し、見つけ出さない限り起業できないことになる。これは企業家にとってはアイデア出しだけでなく、同じようなアイデアを出す他者との競争の厳しい世界であり、競争に勝つために、極力コストダウンをしなければ生き残れないし、しかもまさにその業種の性質により機械化ができないのだから、労働者を雇って労働集約的にせざるを得ない。これを、労働者の立場から見ると、従来の労働はすべて機械に奪われてしまっているので、労働しようとすれば、このような労働集約的で、かつコストをぎりぎりまで切り詰めたような業種にしか働き口が無い、ということになり、そのような労働では労働者数を削減するので重労働になり、しかも労働に対する賃金は、コストダウン圧力によりどんどん切り詰められることになる。つまり、労働者は「働けば働く程貧乏になる」ということになる。一方で、国全体のオカネの総量は変わらないのだから、「必死で働く労働者」が「貧乏」になれば、そうでない人、すなわち「働かない人」のところに逆にオカネが集まることになる。つまり「働かない人ほど豊かに成る」
↑この理屈は 1+1=2 のような「論理的蓋然性」により、そうなる、というか、実際にそうなってきている。なので、これを従来の労働倫理に基いてケシカランと言ってみたところでどうなるものでもあるまい、ということなのである。

226:OB :2022/02/07 (Mon) 01:48:41
自分や家族が、病気や金持ちでも無いのに
今 必死になって働かなくても良いと思ってしまった人は
貧乏の危険性が増すこの御時世で

辛いことはしないで良い
どうせ、将来、必死に働かなくても良くなると言われたら
モチベーションが下がり
なおかつ、今それを言うのは、今は貧乏でも大丈夫だと
今の貧乏を推奨する様に私には思える

227:mespesado :2022/02/07 (Mon) 01:56:27
>>225
 一言言い忘れたので補足しておく。>>225 に述べた「論理的必然」の流れにおいて、左派がよく引き合いに出す「私腹を肥やそうとする利己的な悪徳商人」の存在は全く仮定していない。すべての国民が善意で動いていても、必然的にこうなる、という話なのだ。すなわち、左派が良く言うような、正義を皆が貫き、利他の心を持つことによってこの問題が解決できる、などという単純な話ではない、ということに留意する必要がある。

228:mespesado :2022/02/07 (Mon) 01:59:31
>>226
 逆だ。
 必死で働かなければ貧乏になる、という恐怖心に駆り立てられることが問題なのだ。従来の労働倫理である「働けば働くほど豊かになる」という常識から自由になることで、自分が信じてきた価値観を手放すことが大切だ、ということが言いたいことの本質なのである。

229:OB :2022/02/07 (Mon) 02:03:46
M君は
供給過多の社会 と言い切って居ます

現状、供給不足による世界的物価高です。

将来も供給過多に成らない社会もあり得ると
計画経済の大義名分が有れば供給不足に出来るし
資源問題、物流問題、環境問題で幾らでも生産総量は
減らすことができる。

よって、M君に反証は出来たと思うが
将来どうなるかは、それを決めるグループにしか
分からない

230:mespesado :2022/02/07 (Mon) 02:07:11
>>229
 昨今話題になっているエネルギーや食糧の供給不足は、DSが「わざとそのように仕組んでいる」もしくは「煽っている」話だ。SDGsなんてその権化であろう。そもそも、このコロナ・プランデミックの直前には、そのような偽の「ナンチャッテ供給不足」など存在しなかったではないか。
233 名前:mespesado 2022/02/07 (Mon) 10:00:01
>>226 と >>229 で提起された論点についてもう少し詳しく説明しよう。

> 自分や家族が、病気や金持ちでも無いのに
> 今 必死になって働かなくても良いと思ってしまった人は
> 貧乏の危険性が増す

 私が >>225 で解説したのは、逆に「今 必死になって働」いたとしても、ちっとも収入が増えないので、貧乏の危険から少しも逃れることはできない、ということだ。なぜなら、>>225 に書いたように、供給過多が極限まで進んでしまった現在の日本においては、いわゆるブルシット・ジョブしか残されておらず、この種の仕事は重労働な割に収入が少ないからだ。これは実は、経営者にとっても同じだ。なぜならブルシット企業なるがゆえに、いくら才覚があっても経営が安定せず、常に倒産の危機と隣り合わせだからだ。これは社会全体がブラック企業化した、と言い換えてもよい。それならば、貧乏を避けたいのであれば、発想を転換するしかない。その発想の転換には「オカネを稼げば貧乏で無くなる」といった「貨幣価値への換算」至上主義をも手放すことが含まれる。まさに >>231 で貴香さんが

> W理論での貧乏とは、お金を上手く使えない人のことです。
> o先生の話しでは1億のお金が有っても使えなくて、餓死する人がいたそ
> うです。
> そんな貧乏な人もいれば、少ない収入でも細やかな生活を喜び、心豊か
> に暮らす方もおられます。
> そういう方は貧乏では有りません。

と述べられたところに答がある。オカネそのものは、モノやサービスを得るための手段に過ぎない。だから、純粋に唯物的な観点で考えた場合でさえ、「豊かさ」とは「受けるモノやサービスの質と量」であって「所持している貨幣の量」ではない。手段ばかりいくら持っていても、肝心の目的物を持っていなければ豊かとは言えないのは当たり前である。「お金を使う」ということは、お金を使って、目的物であるモノやサービスを手に入れるということだけでなく、お金を払った相手にもモノやサービスを得る権利を渡した、ということを意味する。つまり、「上手にお金を使う」ことによってこそ、自らも、お金を支払った相手も、双方を豊かにすることができるわけだ。
 そして、ここが重要なのだが、お互いに豊かになる手段としてお金を用いたが、それは必ずしもお金でなくてもよいことがわかる。地域通貨的なものでもよいし、何らかの「公平感」を保証してくれるような「何か」であれば何でもよいし、逆に、もし今使っている「お金」が、この「公平感」を保証してくれないものになり果てたのであれば、我々はお金という手段を捨てなければいけないことになる。今のような特定の企業が当該分野の世界的需要をすべて牛耳っている世の中では、そうなりかけている、というか、既にそうなっている。ただ、「お金」という非常にドライで特定の集団の色がついていない手段は便利なところもある。モノやサービスを交換するときに纏わりついているどろどろしたモノを排除できるからだ。要は手段というものは「使いよう」であって、逆に、手段に「使われる」のは、本末転倒である、ということだ。

> 辛いことはしないで良い
> どうせ、将来、必死に働かなくても良くなると言われたら
> モチベーションが下がり
> なおかつ、今それを言うのは、今は貧乏でも大丈夫だと
> 今の貧乏を推奨する様に私には思える

 私の話は「将来」の話をしているのではない。今「必死に働かなくても良い」という話なのだ、というか、正確に言うと、今「必死で働いたところで良くならない」という話なのだ。それなのに、これが「今は貧乏でも大丈夫だ」という意味に解釈してしまうのは、「不労=貧乏」、裏を返せば「労働=富」、言い換えると「富は労働によって得られる」という従来の労働倫理の図式をそのまま信じているためであり、今日では「労・不労」と「貧富」が直接連動しなくなって来たのだから、そのことをまず受け入れよ、という話なのである。

> 現状、供給不足による世界的物価高です。

↑これについては >>230 でもちょっと述べたが、世の中が確実に供給過多になり、すべての人間がモノやサービス不足から解放されつつある。ところが人間には支配欲があり、特に自分が「豊かな勝組」だと思いたいDSのような連中は、「負け組」であるはずの一般庶民が豊かになってモノ・サービス不足から解放されるのが気に入らない。自分たちの「優位性」が失われてしまうからだ。そこで、DSの連中は、機械がモノを生産しているという事実をこれ幸いと口実にして、一般庶民が「生産もしない穀潰しだ」とレッテルを貼り、人口削減や完全管理の支配下に置こうとする。ところが「穀潰し」だというだけでは「人口削減すべき」という結論は得られない。そこにプラスして「エネルギーや食糧が足りなくなる」という舞台設定が必要だ。この舞台設定があってこそ「人間が多いと食糧が不足して維持できなくなる」という結論を得ることができる。そのために、彼らは「わざと」供給不足を引き起こす必要があるのだ。

> 計画経済の大義名分が有れば供給不足に出来るし
> 資源問題、物流問題、環境問題で幾らでも生産総量は
> 減らすことができる。

と御自分でも書いているではないか。
 しかも、その手段は、↑のような露骨な「共産主義」や「全体主義」のような手段だけではない。例えばSDGsでは、環境汚染や温暖化が起きるからと言って、二酸化炭素排出規制を名目に火力発電をも減らさせて、電力不足を引き起こそうとする。牛のゲップが温室ガスであるメタンを増やすからと肉食やその生産である畜産業を止めさせようとする。このように、「ウソで固めた環境危機」によって、恐怖にかられた国民や国家の方から進んで「供給不足」を作らせてしまうような高度な作戦を彼らは実際に採っている。我々は、このような国際規模の、一見善良の仮面をかぶった大きなウソを見抜かなければ生き残れない時代に突入した、ということなのだ。
234 名前:mespesado 2022/02/07 (Mon) 11:03:16
>>233
 今、世の中に求められていることは、「一生懸命働くこと」ではない
↑このことを痛感させられるような話が次のサイトにありました↓

しんどい倫理
https://note.com/nakamuraclinic/n/n1fffc03b2aa5

 ある病院に勤める医師が、来院するコロナワ○チ○接種希望者に対し、接種前に、起こり得る副作用について必ず説明するという「インフォームド・コンセント」を徹底していたところ、苛立った院長からこう言われたそうです↓

> ワクチンのデメリットを説明するな

 これに対し、件の医者は、デメリットの説明をしないことは、医療法や予防接種法に明確に違反しているとして反論したところ、最後はこう言われたそうです↓

> あのさ、君も長らく医者をしていれば分かるだろう。病院経営はきれい
> ごとだけでは成り立たないんだ。正義を振りかざして、君はさぞ気持ち
> がいいだろうが、そういうのはうちではやめてくれ。どうしてもそうい
> うことがやりたいなら、他でやってくれ

 これ、例の「脳減る賞」を受賞した「矢魔中教授」がTVでワ○チ○を推奨したのと同じで、要するに、自らが経営責任を負う組織にカネが入らなくなって、その組織の経営が成り立たなくなって廃業することになるのは、経営者としての責任放棄になる、という「倫理」が世の中には厳然として存在しており、組織の責任者当人としては、そのために、いくら「人類に対する犯罪」であることがわかっていても、それを止めることができない、というわけです。
 こういう構図が今の世の中を至る所で牛耳っており、単に「一生懸命働く」というだけでは「豊かな生活」どころか「真っ当な生活」すら送ることができないようになってしまった。つまり、「私腹を肥やしたい」とか「楽して儲けたい」などという「利己的な動機」なんかではなく、「自らの職務を全うする」という今の社会では「当然に要求されている倫理」に従おうとしているだけなのに、そのことが、逆に「人類に対する犯罪」という、別の非倫理的な行為になってしまう、というジレンマになっているわけで、「じゃあいったいどうすりゃいいんだい?」というわけですね。
 つまり、二種類の当然に従うべきと考えられてきた「倫理」が互いに矛盾している、という例が現実に多発してしまっているのです。最早、「昔からある倫理だから」といことでそれに従っていればよい時代は過ぎ去った。
 従来からの「倫理」だからといって、それにただ従うのではなく、もっと根幹にある「何か」を「見つけて」、というより「気づいて」行動の判断基準にするしかなくなってきているわけですね、今日という時代には。

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