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新・mespesadoさん講義(117)エランヴィタール(生命の飛躍) [mespesado理論]

「真実を求めて」.jpg医療法人徳洲会の創設者徳田虎雄さんにわれわれが初めて出会ったのは、昭和56(1981)年の冬でした。徳田さんは「獅子の会」という青年組織を立ち上げながらの全国講演行脚、徳洲会が「日本の医療を変える!」を旗印に全国展開をはじめて8年目、まだ9病院の頃でした。徳洲会は、当時武見太郎率いる「医師会」とことごとく対立、「政治力」の必要に駆られ、参院全国区からの政界進出を目論んでの行動でした。(当時参院全国区というのがあり、石原慎太郎が100万票以上の票を集めて当選していた。しかし、1983年の参院選からは政党名で投票する拘束名簿式の比例代表制に変更。背景に徳田さんの政界進出を阻む画策があったとも言われた。徳田さんにとっての政治人生は、その後も苦難の歩みとなる。→https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2018-05-12

獅子の会全国大会.jpg獅子の会の行動指針のひとつに「実力の100倍の目標設定」というのがありました。徳田さんは平成2(1990)年に衆議院議員になりました。その翌年、「南陽で講演したい」との申し出に応えて準備を進めました。その中で「会としての目標を定めよう」との話が持ち上がりました。われわれにとって実力100倍の目標設定は何か。その議論から生まれたのが「21世紀、置賜は世界の中心になる!」でした。https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-04-19-1

mespesadoさんの今回の文章で思ったのがこのことでした。「『意識して』苦労を買う」ってところが問題で、「自分」が苦労を背負うと思うから辛いんで、これを「自分」じゃなくて「自分の脳」に背負わせればよい。》脳に焼き付けてしまえば、あとは「自動運転」に任せればいいのです。やってるのは「自分」ではなくて「脳」なのです。どうもその「脳」は貴香さんの言う「集合意識」に通じているみたいです。いい加減な「自分」でも、「集合意識」に通ずる「脳」は勝手に情報を集めて勝手に方向を指示してくれます。ただ、ベルグソン『創造的進化』で言うところのエランヴィタール(生命の飛躍)」が節目節目には必要であることは経験的に言えそうです。時には「自分」と「脳」の間にできた溝を埋める必要があるのです。飛び越えるのは大変といえば大変ですが、新しい世界に進むには通らねばならないプロセスです。

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141 名前:mespesado 2022/01/15 (Sat) 11:23:44
 貴香さんとsuyapさんの「修業(行)」を巡るやりとりを興味深く読ませていただきました↓

>>123 suyapさんwrote:
> いや~、ニンゲンである限り、よほどの修行を積まないと、なかなか生
> 老病死の四苦からは逃れられないでしょ。

>>125 貴香さんwrote:
> W理論では修行と云うイメージとは違って、未来型の生き方に成ると、自
> 分の感覚、それは5感というより6個の感覚という意味で6感が、自然に研
> ぎ澄まされてくるので、修行なんてしてはならないって言われてました。

>>129 suyapさんwrote:
> あと修行してはならないと「言われ」ても、貴香さんが向かいたい方向
> へ進む努力を日々されているわけだから、私にはそれが修行(研鑽)に
> 見えますけどね。なにも座禅したり、ヨガしたりするのが修行じゃない
> よ。
>> 残念ながら、私が以前書いてたブログも、結局o先生に止められ消しな
>> さい。と言われたので消して、又どうしても書きたくて書いて、やっ
>> ぱり駄目で消して、又書いて、、、

> なんだか禅の修行みたいですね。

>>130 貴香さんwrote:
修行するとか、努力するとか、頑張ってはいけません。とはW理論で導き
> 出した未来型の生き方です。
頑張ることは自分のすることでは無いからです。

> そのブログについて言いますと、私は未だ書くなと言われていたのに書
> きたくて書いてしまい、消しても又書きたくて書いてしまい、未だとい
> うことの繰り返しで、悔しかったのは消さないといけなかった、という
> 点だけです。
修業とは程遠い感じです。

> 先程も言いましたが、努力して頑張って修行なんて根本的に無理な体質
> なのです。

>>136 suyapさんwrote:
> 貴香さんの中ではO先生との時間や言葉が今でも反芻されてて、それに沿
> って生きようとされている。それが私のいう修行なんですけど^^ 字ず
> らに囚われないで。

>>139 貴香さんwrote:
> 私は修行って言うと努力と頑張りは必須だと思ってました。

 実は私も「修業(行)」なんて言うと大げさですが、単なる「努力」も嫌いな人間でして(>>130 で貴香さんも書いておられますが、それに近いかも知れません)、そのことがあるからなのか、「努力する必要は無い」という考え方(>>130 にあるW理論みたいなものですかね)にすごく共感していたんです。しかし何らかの、一定レベル以上の「特技」を持つためには、鍛錬というか、「何か」の訓練のようなものは必要で、しかし、それが自分の好きなことであれば、好きだから夢中になってやろうとするので、それが結果として「訓練になっている」ということがあります。実は、私の場合、自分のいわゆる得意分野というのか、特技というのかって、すべてそういう方法で身に付けたものだったんですよね。つまり「無意識に、勝手に自分の脳が努力している」って言うんでしょうか。私は、そういうわけで、この何と名付ければいいのか知りませんが、「(意識した)努力は不要」という主義でずっと納得していたんです。
 ところが、どうも自分のホンネの部分というか、心の奥底ではどうにも本当の意味での納得感というか、「腑に落ちる」感覚が無かったんです。だって、それだと自分の好きなこと、夢中になれることでしか自分の能力を向上させることができない。趣味の世界で人生が完結するのならそれでもかまわないけれど、人生はそれだけじゃない。生命維持の基本となると言ったらいいのかな、いわゆる「生活」の部分がある。ここで、あまりに基礎的な部分を「自分は興味がないから努力しない」でいると、できてアタリマエと社会では通常は考えられているようなこととか、家族間での日常生活で、他人のイライラのもとになったりすることがある(服を脱ぎっぱなしで!とか電気をつけっぱなしで!とかこっちが言ったことちゃんと聞いてない!とか、そういう他人が聞いたらショウノナイ生活の基礎的な要素が多数)。
 で、これを「俺の不得意分野なんだから、できなくてもしょうがないじゃん」と思うのは自分にとっては勝手でも、それで迷惑する人がいるわけだから、単なる開き直りでしかない。で、じゃあそういうのがいやであれば、他人が迷惑を被らなければいいんでしょ、ということで、一人で生活すればいいのか、というと、いや、一人で生活するにしたって、生活費を稼ぐ必要があるから、収入を得るための「義務的な」仕事はしなければならない。で、仕事って、特に収入を得るためのものであればなおさらだけれども、必ずしも自分が「好きな」ことだけやっていればいいっていうものじゃない。どこかで絶対自分が好きでもないのにやらなければ成り立たない要素が必ずある。そこで、社会で当たり前にできることが期待されている部分ができないと、仕事が成り立たない。それでも無視してれば「お前はクビだ!」で終わり。ということで、逃げを考える。すると、現代貨幣論で「いいこと」言ってるのを発見する。そうか、今は供給過多の時代だ。だから労働は機械がやるから、人間は働く必要が無くなってきてるんだ!だから、もし収入を労働の対価としてしか得ることができないという今までの体制を続けると、大半の人は収入を得ることができなくなり、「生産は十分なのにオカネを持たない為に消費ができなくなる」というすごい不条理が生じるようになる。これを解消するにはベーシックインカムしかない!そうだ!タダでオカネが貰える!そうしたら自分の好きなこと以外の要素がある義務的な仕事はしなくてもよくなる、ラッキー!早くそういう時代が来ないかな~。
↑なんていう方向に自分の考え方が突っ走って行っていたのは間違いないんです。でも、これも自分で書いたように、ベーシックインカムなんていう、「中央集権的な組織」に収入を依存すること自体が、自らの生殺与奪の権限を他人に委ね、自らを奴隷化することでしかなかったんですよね。
 で、何気なく見てみた貴香さんが >>131 で紹介してくれた、斎藤一人さんの動画で言っていた一言:
脳はサボろうとする。

にドキッとしたんですよね。なるほど!「(意識して)努力するのは嫌い」っていう自分の性格…、だと思っていたのが、別に自分だけの特質なんじゃなくて、脳の性質だったのか…! ← 私、思った以上に単純だったですネw
 そして、それに対する対処法↓
「俺にはできない。俺の脳にはできる。」

 そう。「オレは努力するのがキライな性格だから、好きでもないことを努力するなんてムリ」と思い込んでいたのも、実は自分、というよりは、自分の「脳」が自分を「洗脳」していただけだった。ところが、斎藤さんも言うとおり、「脳」ってのは、「ホンキ」で「できる」と信じたら、勝手に「脳自身」が努力して解決のために「勝手に」動くようになる。だから、「俺にはできない」と洗脳されていたとしても、「じゃあ、俺のかわりに俺の『脳』さんよ、あんたはすごい能力を持ってるらしいから、あんたが代わりにやってよ。必ずできるらしいからさ。じゃあ後はよろしくね」。これは強力だ!
 で、これに関連して思い出すのが、「若いころの苦労は買ってでもせよ」という諺がありますよね。私は、これの言わんとするところはわかるのだけれども、「それって、若い時に貧しいかなんかで、自分としては不本意なのに努力しなければ生きることができなかった人が不承不承努力していたところ、結果として成功して今に至った。そこで過去を振り返ると、いやだ、しんどいと思って不承不承若いころ苦労したのは辛かったけれども、そのおかげで結果として技を磨くことができて今日のハッピーな俺がある。だからなあ、今の若い人よ、若い時は、たとえ楽できる環境にいたとしても、それに甘んじていると、精神が鈍ってしまって結果として人生を棒に振ることがあるんよ。だから若い時は『意識して』苦労を買って出た方がいいんだよ」という教訓話だと思っていて、「でも、それは若いとき苦労しなければいけない環境にあったから、結果的に努力できたんですよね。そういう環境に無かったら、苦労をわざわざ買うなんて、『苦行』以外の何ものでもないじゃないですか。若いときとは言え、それも私の貴重な人生の一部です。それを苦行に費やすなんて、そんなのゴメンです」という考えの方に同調していたんですよね。
 でも、この「『意識して』苦労を買う」ってところが問題で、「自分」が苦労を背負うと思うから辛いんで、これを「自分」じゃなくて「自分の脳」に背負わせればよい。「脳さん、努力して」と。でも「努力して」と言われたら怠け者の「脳」は反発するから「オレ、将来成功したいけど苦労はイヤだ。でも『脳』さんならできるよね。だから、オレが成功するように後は考えてね、じゃあよろしく~」でよかったんですね。まあ、便宜的に「成功」という言葉を使っているけれど、これは「自分」が真に望んでいること、特に「努力がイヤだから本当はそうありたいのに諦めていたこと」のことを指すと思ってください。ということで、お二人の「修業(行)」談義と、斎藤一人さんの話には大いに触発されるところがありました。どうもありがとうございました。

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