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新・mespesadoさん講義(113)真の「真理」と真の「愛」 [mespesado理論]

①OBさんの《真理(完全な正しさ)である「記号理論」》に対して、mespesadoさんは記号論理の世界は、・・・現実の宇宙そのものではない。》と応えます。「理屈は真理ではない」のです。「以心伝心」で伝わることこそが真理なのです。(【追記】ちょうど副島重掲板で、下條竜夫氏が「ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の謎を解く」を書かれました。タイムリーに読めました。http://snsi.jp/bbs/page/1/
世界は「関係」でできている.jpeg今、『世界は「関係」でできている』を読んでいます。「美しくも過激な量子論」の副題がついています。新聞広告で見て、吉本の「関係の絶対性」などを思いながら、題名に惹かれて購めたのです。一通り目を通しているうちに、「これはすごい本なのかもしれない」と思い出して、少し丹念に再読しだしたところです。
《もうそろそろ、量子論と真正面から向き合う頃合いだ。ごく限られた理論物理学者や哲学者の輪の外でもその本質について論じ、そこから抽出されるとびきり甘い夢のような蜜を現代文化全体に託すべきなのだ。》(195p)というのですが、要するに《じつは、量子論が指し示す形で改めて現実について考えてみると、心的世界と物理的世界は根本的に違う、という神話を一掃することができるのだ。》(178p)ということです。
物理的世界は、外側から三人称で客観的に記述されるのに対して、心的世界は、内側から主観的に一人称で記述されます。ところが量子力学的には《事物の総体には「外側」がない。外側からの視点は、存在しない視点なのだ。この世界の記述はすべて内側からのもので、外側から観察される世界は存在せず、そこには内側から見たこの世界の姿、互いを映し合う部分的な眺めしかない。この世界とは、相互に反射し合う景色のことなのだ。・・・物理学は常に一つの視点からの、一人称の現実の記述なのだ。》(180-1p)そして結局、《過程や出来事、ひいては関係論的な属性や関係が織りなす世界の観点に立つと、物理的現象と心的現象の隔たりも、それほど深刻には見えなくなる。なぜならどちらも、相互作用が織りなす複雑な構造から生じる自然現象と見なせるようになるからだ。》(184p)いずれその射程は、死後の世界にまで及んでいるのかもしれない。
「自分の好きなところも嫌いなところもすべて自分であることを悟り、自分のすべてを自分で受け入れ、受容する」》自分で自分の欠点と認識されていることを真に受け入れているときは、心から相手に謝れるし、心から気にならなくなる。》《自分を真に「受け入れる」ことができるようになったとき、他人のことも、真に「受け入れる」ことができるようになる。》真の「愛」》
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654:mespesado :2022/01/09 (Sun) 22:57:29
>>653
 記号論理の世界は、ギリシャ語でいうロゴスの世界であり、要するに「実体」ではなく「名前」の世界であり、一次元のデジタル情報の世界に過ぎず、それもたかだか「思考」のための道具に過ぎず、現実の宇宙そのものではない。だから、宇宙人同士が互いにコミュニケーションを取る場合に、この記号論理というロゴスを使わなければならないという必然性は無く、全く別のコミュニケーション方法があるかもしれない。
 それに、論理の世界に限定したとしてさえ、たとえ更にそれを「数理論理」に限定した場合であっても、実はそれは「正しさ」の追求ではない。「正しさ」というのは「真」と「偽」からなる二値論理、すなわち「古典論理」の、しかもシンタクスではなくセマンティクス(意味論的解釈)でしかなく、これは実は数理論理、あるいは数学というものに対する「先入観」でしかない。数理論理というもののもっと根源にあるのは、いわゆる「直観主義論理」あるいは「構成主義論理」とよばれる論理であり、実はこれらのネーミングはミスリーディングなのだが、その根底はあるのは「正しさ」ではなく、「自明さの追求」である。実は肝心の数学者でさえ、そのことに気付いている者は少ない(少なくともフランスのブルバキいおける数理哲学の理解は全くダメである


104 名前:mespesado 2022/01/10 (Mon) 10:35:43
>>103
 そうですね。「好き嫌いで判断すると間違う」ということが確かだとしても、「だから好き嫌いは悪だ」と、すぐ無意識に「外側の価値観」であるところの「善悪判断」に結び付けてしまって「だから好き嫌いをなくすようにしよう!」となっちゃうのがこの「3次元世界」の人間の悲しい性(さが)ですね。
 「好き嫌い」は「感情」であり、その「感情」が「思考」を支配している。だから、一見「好き嫌いとは無関係に思考しているつもり」であっても、実はそうではない。↑このカラクリというかシステムに気付くことが実は一番大事なのだと思います。
 ところが、ここで、また「どうせ思考は感情に支配されていて感情の方が上位なのだから思考は感情に劣る」などと、これまた「外側の価値観」であるところの「優劣判断」に結び付けてしまって「だから思考ではなくて感情で判断するのが正しい」とかなっちゃう…。うかうかしていると、このように、いつでもドツボに嵌ってしまうんですね。
 「思考」は、まさに知的生命体である人間が天から与えてもらった大切な機能なんだから、これを有効活用しない手はない。だけれど、この大事なツールが、よりプリミティブに発達した機能である「感情」の支配下にあることを「善悪とか優劣の価値判断なしに」自覚する。すると、「この有用な思考をコントロールしているのが感情なんだから、その感情を素直に感じられるようにしよう」という発想になる。そして

>>100
> >>93のmespesadさんの書かれたのを読んで、
> そこに上げられたリンク先の方が書かれてる感情、って本来なら感性或
> いは感覚って言う方が理解出来るかなと思いました。
> 感性や感覚と、感情という言葉も微妙に意味が違うって事と、愛と愛情
> の違いと、もしかして似てるかも知れないと思いちょっと書いてみます。

 そのとおりで、>>93 のリンク先である「丸顔おばさん」の記事で気になるのは「感情」と「感覚」の区別があいまいなこと。「感覚」というのは、文字通り「感じていることを『覚(さと)る』」ことで、自分のセンサーにかかることですよね。そこには何かを「掴んでいる」感じがある。「怒り」とか「悲しみ」とか「喜び」のような「感情」とは全然違う別物。
 それと、似たような話が「意識」と「思考」の違い。「意識」とは何か。よく「カラ返事」とか「人の話を聞いてない」とかいうことがあるけれど、これは「意識」を「相手の話」に向けていないときに起きる。逆に、「真剣に聞いている」ときというのは、それが自覚的であれ無自覚であれ「何か」をある「対象」に向けている。その「何か」が「意識」ですね。そこには「思考」のような、何か頭をCPUのようにガチャガチャ働かせているような感じは無い。
 「感覚」も「意識」も無自覚なケースが多いけれども、これらを「研ぎ澄ませる」というと大げさだけれど、まあ「発達」させることによって、「感情にやられてしまう」のを防ぐことができる。もちろん、その「感情」に支配された「思考」に支配されることも
 そして最後に「愛」と「愛情」の違い。愛というと、真っ先に「恋愛」が頭に浮かぶけれど、これは「愛」ではない。しかも「愛情」でもない。「執着」と言った方が正確かもしれない。だって、誰かに恋愛感情が芽生えるのは、相手のキャラクター次第。つまり「条件付き」だから。本当の「愛」というのは条件が付かない。キリストは「汝の敵を愛せ」と言ったようだけれど、これを真に理解するのは結構難しくて、他人に「愛」を向けるのって、自分は向けているような気がしているけれども実は向けていなかった、なんてことは何度もある。実は「他人」を愛するにはまず「自分」を「愛」せてないとできない。でも自分を「愛」する、というのもこれまた広く誤解されていて、いわゆる「ナルシスト」とは違う。「自分の好きなところも嫌いなところもすべて自分であることを悟り、自分のすべてを自分で受け入れ、受容する」ということ。そして、この「受け入れる」というのも、これまた誤解されていて、「受け入れる」と「正当化する」は違う。自分で自分の気に入らないいわゆる「欠点」があるとき、それを直さずにそのまま放置していいんだ、文句あっか!と思う、というのは、これは自己の「受容」ではなくて、単なる「開き直り」だ。これを区別するには、自分の「欠点」だと思っていることを他人に指摘されたときの態度でわかる。「何だと!悪かったな。だけどお前だって…」とか「あーいやだ。どうして自分っていつもこうなんだろう」とかいう反応をするときは、前者は「開き直り」、後者は「委縮」であって、全然「受容」していない証拠だ。「あ、はい、そうですね、すいません」とか「そうですが、何か?」となれば真に受け入れてることになるんだけれど、ここでまた問題が。これらのセリフを「口で言う」だけなら簡単なのだけれど、問題は、それが「本当にホンネ」なのかどうか。よく口先だけ謝っているということがあるけれど、それでは受容していることにならない。「すいません」と相手に謝っているように自分では思っても、それがホンネでないときは、必ず態度に出る。「オレは悪くない。でも仕方ないから謝っとくか」という気持ちになっているのが態度に出てるハズ。また、「それが何か?」の方は、ホンネで気にしてない場合は態度が「自然」なのに対し、そうでないときは、何か食って掛かるような態度になっているハズ。自分で自分の欠点と認識されていることを真に受け入れているときは、心から相手に謝れるし、心から気にならなくなる。実はエラそうにこんなことをホザいているけれども、私自身は全然この境地まで達していないんですけどね。
 で、自分を真に「受け入れる」ことができるようになったとき、他人のことも、真に「受け入れる」ことができるようになる。で。、実はこれこそが真の「愛」だ、ということになるのだけれど、この掲示板での「いざこざ」を見ていると、その中に飛び込んでいる自分も含めて、まだまだ悟りに達していないな~と思う今日この頃ですw。

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