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「My Story 奥山清行さん」(日経日曜版) [地方再生]


奥山 日経2022.1.9.jpg今朝の日経日曜版、見慣れた山容を背景に奥山氏の大きな写真、《山形県南陽市の温泉リゾート開発予定地》のキャプションがついていた。見開き2ページの「My Story」に 奥山清行氏登場だった。《さらに高みに何度も変身 「人は何度も生まれ変われる」「楽しさを徹底的に極めろ」。せっかく築き上げた地位や名声を何度も投げ捨て、世界に勝つための武者修行を続けてきた日本人がいる。米国、ドイツ、イタリアを渡り歩いた工業デザイナー、奥山清行さんの人生の分岐点に迫る。》とのリード文。その本文は《目下、山形県南陽市で初のリゾート開発に取り組む。経営が悪化していた市の温泉施設を譲り受け、10億円かけて再生する計画。設計に建築家の隈研吾さん、飲食部門に伊料理店「アル・ケッチァーノ」のシェフ奥田政行さんを起用し、23年9月までの開業を目指す。/「温泉や地元食材、景観も生かした快適な空間をつくりたい。仕事や生活など経験すべてを注ぎ込む覚悟です。/自分探しの旅に終わりはない。(小林明)》で締められている。この記事の取材あっての昨日の記事だったのだ。

m_E5AEA5E6988EE995B7E58D97E7A4BEE7ABA3E5B7A5E7A5AD6-1f411.jpg米、独、伊を渡り歩いてこの地に至ったという奥山氏に、今から760年前、勝景の地を求めて南陽市金山にたどり着いたとの伝えがある高橋七兵衛家を思った。代々七兵衛の名を継ぐ高橋家は南陽でも有数の旧家である。家系譜によると、小四位源朝臣頼親七代の孫三宮蔵人長親末流、源長安で高橋石見守、代々会津の芦名家に仕えていたが、不遇だった長安は世を遁れ勝景の地を探り、松島・南部・象潟・山寺を経てこの地に居を構えたと伝えられる。それが今からおよそ七百年前。つまり勝景の地を求めてついに探し当てたその土地がまさにわが北条郷金山の里であったのである》https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2015-02-12 そしてその地に祀られたのが龍ノ口明神で文応元年(1260)のこと昨年夏、この地に「宥明長南社」が創建なった。→https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2021-08-06-1 その高橋家(現当主武一氏)は今、「四季南陽」のすぐ下、内原の地に居を構えているのも意味あることなのだろうか。


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さらに高みへ何度も変身 工業デザイナー奥山清行さん 

NIKKEI The STYLE 「My Story」

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おくやま・きよゆき 1959年山形市生まれ。武蔵野美大卒業後、渡米。米アートセンター・カレッジ・オブ・デザイン卒。米GMを経て、独ポルシェ、伊ピニンファリーナに移籍し、「コルベット」「ポルシェ」「フェラーリ」など世界的な名車をデザインした。英、独、伊語を操るプレゼンの達人。2007年に帰国後、地場産地振興、秋田・北陸新幹線などのデザイン、初の温泉リゾート開発に取り組む。ヤンマーホールディングス取締役。大阪メトロ最高デザイン責任者(CDO)。写真は山形県南陽市の温泉リゾート開発予定地。

「人は何度でも生まれ変われる」「楽しさを徹底的に極めろ」。せっかく築き上げた地位や名声を何度も投げ捨て、世界に勝つための武者修行を続けてきた日本人がいる。米国、ドイツ、イタリアを渡り歩いた工業デザイナー、奥山清行さんの人生の分岐点に迫る。

風変わりな少年だった。いつもスケッチブックと粘土を大切そうに抱えて、テレビの前に座り込んでいた。特撮番組「サンダーバード」に登場するロケットや自動車を番組が終わるまでにスケッチし、その模型を粘土で作るためだ。それを誰に見せるわけでもなく、部屋に飾って独りでニマニマしていたという。

「生意気な乗り物オタクでしたね」

山形市で生まれ育った。農家の孫で土建会社の息子。「10歳になるまで海も見たことがなかった。それがフェラーリやポルシェ、カマロのデザイナーになるんだから、人生は本当に何が起きるか分からない」と愉快そうに笑う。

絵や工作が得意で武蔵野美術大学に進む。同級生には中島信也さん(CMディレクター)やみうらじゅんさん(イラストレーター)がいた。だが広告やイラストに興味が持てず、自分のやりたいことが見つからない。サーフィンやスキーに明け暮れた生活の延長で「響きがいいからカリフォルニアに行こう」と軽い気持ちで日本を飛び出した。

米留学で見つけた目標 根性で成績トップ争い

「生まれ変わる体験」をしたのはロサンゼルスに着いて数カ月後のことだ。ラジオから流れてきたカーペンターズの「トップ・オブ・ザ・ワールド」を聴いた瞬間、飛び上がるように驚いた。英語の歌詞がそのまま「自分の言葉」として頭の中にスーッと入ってきたからだ。

「もう、仰天しましたよ。自然に"英語耳"になっていたんですね。僕にとっては第二の誕生日。『人間って生まれ変われるんだ』と初めて気が付いた」

その感覚を今も鮮明に覚えている。

「覚醒」はその後も続く。知人の勧めで見学に訪れたデザイン教育の殿堂、米アートセンター・カレッジ・オブ・デザインで頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。ガラス張りの教室をのぞくと、自分と同世代のデザイナーの卵たちが教官にボロクソに罵られながら、必死で自動車のスケッチを描き、クレイモデルを仕上げている。

強烈な嫉妬がこみあげてきた。すぐ頭に浮かんだのはテレビの前で写生し、模型を作っていた自分の少年時代。その延長線が目の前に広がっている。「そうか、自分のやりたいことはこれだ!」。人生の目標が見えた瞬間だった。

入学すると弱肉強食の世界が広がっていた。授業は軍隊並みのスパルタ式。朝9時にはドアが施錠され、遅れたら入室できない。3回遅刻で即落第となる。毎日、膨大な宿題が出され、出来が悪いと教官に破り捨てられる。300人超の生徒は学期ごとにふるいにかけられ、卒業できるのは2、3割だけ。

そんな過酷な環境下で「さらに自分が生まれ変わる」のを感じたという。

根性、根性、また根性……。野球で千本ノックを受けるように自分を徹底的に鍛え抜いた。描いたスケッチの数は誰にも負けない。何度も徹夜し、懸命に授業に食らいつくうちに活路が徐々に開けてくる。気が付いたら、学科内の成績でトップを争うようになっていた。

「自分が特別だったわけではない。この道が大好きで楽しいと確信できたから、苦とは思わなかった。人生の目標を見つける方が大変だったくらい」

卒業後の軌跡も目まぐるしく動く。

奨学金をもらった縁で米ゼネラル・モーターズ(GM)に入社し、地道な努力で飛躍を遂げる。デザイナー1500人で評価はトップ。コルベット、カマロなどをデザインし、「将来はデザイン担当の副社長になれる」とまで言われた。だが決して現状に安住しない。

GMエースの座を捨て 2回移籍し武者修行

「次は欧州のデザインを学ぼう」

1990年代、GMから欧州に2回移籍する。地位や名声を投げ捨てて……。1回目は独ポルシェ。水冷エンジンを搭載予定の新型911やボクスターの先行開発を担当した。2年後に再びGMに引き戻されたが、さらにイタリアに渡る。「スポーツ車の最高峰フェラーリをデザインしたかった」からだ。

移籍の代償は大きかった。GMではデザイナーを統括する管理職だったが、伊デザイン工房ピニンファリーナでは平社員に逆戻り。年収は3分の1以下に減り、秘書や所有車、専門オフィスもなくなった。「でも自己投資だと割り切って移籍を決めた」と振り返る。

イタリアは工房が多く存在し、デザイナーの地位が独立している。メーカーへの提案力も強い。そんな新天地でも競争を勝ち抜いて能力を開花。フェラーリ創業者の名を冠したエンツォやマセラティ・クアトロポルテをデザインするなど華々しい実績を上げた。

「米独伊を代表するスポーツ車をデザインできるなんて、お金では買えない貴重な経験が積めた」。やがて独立するために2007年に日本に帰国。家具、鋳物、眼鏡など地場産業を支援しながら、秋田・北陸新幹線や豪華列車「トランスイート四季島」のデザインも手がける。活動領域は経営コンサルタントやマーケティングにも広がる。

ムーン・ショット――。奥山さんが大好きな言葉だ。かつて真上の月を鉄砲で撃つのは「不可能でバカげたこと」だと嘲笑された。だがアポロ11号が月面着陸して以来、「不可能と思える目標も努力で実現できる」という意味に変わった。それは自分の半生とも重なる。

唯一の心残りは東日本大震災。「デザインで命や生活を守る」と津波対策の避難塔を考案したが実現できていない。故郷の山形など東北にもっと貢献したいという気持ちが日々強まる。

目下、山形県南陽市で初のリゾート開発に取り組む。経営が悪化していた市の温泉施設を譲り受け、10億円かけて再生する計画。設計に建築家の隈研吾さん、飲食部門に伊料理店「アル・ケッチァーノ」のシェフ奥田政行さんを起用し、23年9月までの開業を目指す。

「温泉や地元食材、景観も生かした快適な空間をつくりたい。仕事や生活など経験すべてを注ぎ込む覚悟です」

自分探しの旅に終わりはない。

【My Charge】伊クラシック車レースに参加 人生の苦楽、4日間で体験

「古いクルマは故障も多いし、維持が大変だけど、愛着が湧く。とても魅力的なんです」。イタリアの伝統的なクラシックカーレース「ミッレミリア」(伊語で1000マイルの意味)に愛好家として初めて参加したのは2019年5月のことだ。
北部ブレシアを起点にローマ、フィレンツェ、ボローニャなどを巡り、再びブレシアに戻る約1000マイル(約1600キロ)の公道を4日間で走破する。速さを競うのではなく、チェックポイントごとに設定されたタイムにいかに正確に走り切るかで順位が決まる。
参加したのは1957年式以前のクラシックカー430台。奥山さんは57年式の赤いフィアット・アバルト750GTザガートで出場し、125位で完走した(写真上、レース4日目に伊北部モデナで)。
優雅なラリーかと思ったら大間違いだ。早朝に出発し、深夜に宿舎に着くまでずっと走りっぱなし。走行中はエンジン音に注意深く耳を傾け、ハンドルの振動でクルマの調子を読み取る。クルマの調整や修理もあるから、睡眠は2時間ほど。コース沿いの素晴らしい風景に見入っている余裕もないという。
でも出場者とすぐに打ち解け、旧友のように親しくなれるのが楽しい。「人生の苦しみや喜びを再確認できる。昨年はコロナ禍でさすがに断念したが、今後も出場したい」と意気込む。
仕事にも、気分転換にも、手放せないのが黒い背表紙のスケッチブック(B5判、80枚)だ。手触りやペンの滑り具合、裏写りしない厚さなどが気に入り、長年使い続けていた市販品が生産中止になったため、自分用のスケッチブックを自社で作ってしまった(写真下)。
自宅でくつろぐときも、商用で移動しているときも、空き時間さえあれば白いページにボールペンを走らせる。「どうやら僕の指先にもう一人の別な自分がいるみたい。無心で描いているうちに、思いもしないようなアイデアがペン先から湧いてくるんですよ」
秋田・北陸新幹線や山手線、豪華列車「トランスイート四季島」、トラクター、眼鏡、家具、街づくりなどデザインの多くはこうして生まれたそうだ。描くペースは3~4カ月に1冊。過去のスケッチブックも大切に保管している。「僕にとってはアイデアが詰まったネタ帳みたいなもの。もし紛失したら、仕事に困ってしまうかも」と苦笑する。

小林明

山口朋秀撮影

【NIKKEI The STYLE 2022年1月9日付「My Story」】


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