小田仁二郎と寂聴さん(「米沢日報」元旦号) [小田仁二郎]
「米沢日報」元旦号に、小田仁二郎と寂聴さんについて書いたのが掲載されました。11月に成澤社長から「元旦号に何か書くことない?」と電話がありました。市民大学で話したことを思い浮かべながら、「鷹山公はどう?亡くなって来年がちょうど200年だし」と答えて電話を切ったのですが、ふと「今書くなら小田仁二郎がタイムリー」と思い直して書いた文章です。12月になっての「小田仁二郎特別展」の解説文にも転用しました。(最終章の井筒俊彦関連は米沢日報のみ)
記事が出来上がって「さすが成澤社長!」と思わされたのが、寂聴さんの故郷徳島県の県立文学書道館から掲載許可を得たという貴重な3枚の写真。特に横浜港での二人が手を繋ぐ2ショットは、昭和36年(1961)6月、日ソ婦人懇話会訪ソ使節団として1ヶ月のソ連旅行の写真。《二人の男の中を揺れ動き、次第に音彦から罪の意識をかきたてられていた私はこの一ヶ月の旅で、重苦しい生活から少しでも解放されることに、無意識の期待をかけていた。》(『いずこより』新潮文庫480p)この写真は四角関係の一角音彦(小川文明)が撮ったものではないか。
以下、全文です。
* * * * *
寂聴さんにとっての仁二郎
私には思いがけない寂聴さんの訃報だった。99歳なのだからいつどうなっても驚くことはないはずなのだが、寂聴さんはまだしばらくは大丈夫、と勝手に思い込んでいた。小田仁二郎のひとり娘金沢道子さんから、宮内を舞台にした「にせあぽりや」刊行の了解を得ている。それを持って寂聴さんにお会いし、直にいろいろお聞きしたい。特に、井筒俊彦さんとの交流のこと・・・まだまだ生きていて欲しかった。
「瀬戸内さんとの会話は、ほとんどの時間が笑顔で、その存在そのものが心の支え」という作家平野啓一郎氏の追悼文(山形新聞)に、あちらで寂聴さんを迎える、笑みを含んだ仁二郎の顔が思い浮かんだ。10年近い二人の歳月、いい時間だったちがいない。
小田仁二郎と瀬戸内晴美。二人の出会いは昭和26年(1951)、小田41歳、瀬戸内29歳の時だった。小田が定期的に瀬戸内に通う半同棲の日々が8年あまりつづく。その後、前の若い男が絡んでなしくずしの別れにいたる。その経験を題材にしたのが瀬戸内の出世作『夏の終り』(昭37)。小田は慎吾の名で登場する。
《慎吾の留守に一人でした経験のすべてを、慎吾の顔を見るなり息せききって告げ、一つのこらず話してしまうと、はじめてそれらの経験がじぶんの中に定着するのを感じた。無口で非社交的で、経済力のない、世間の目から見れば頼りない男の典型のような慎吾に、知子は全身の鍵をあずけたようなもたれかただった。》
『夏の終り』は昭和38年、女流文学賞を受賞する。その受賞式での小田との邂逅が、自伝小説『いずこより』に感動的に描かれる。
《受賞式の席上、私は場所柄もがまん出来ず、挨拶の途中で、涙につきあげられて絶句した。この貧しい作品にこめられた小田仁二郎との十年にわたる歳月の想い出が私の立っている足をすくいそうになった。私は彼から、小説を書くことを教えられ、認められるチャンスを与えられ、励まされた。何よりも私は彼との生活によって、文学の質の高さとか低さというものを言葉ではなく、皮膚から教えこまれた。女として充実した美しい恋の日々を与えられた。》
瀬戸内は、ホールにいる客の中に、来賓として招かれていた小田を探し出す。
《壁ぎわで笑っているなつかしい顔があった。「ありがとうございました」私は人が見ていることも忘れて深いお辞儀をしていた。「よかった、ほんとによかった」低い私にしか聞きとれない彼の声を私は吸い込むように聞いた。私は泣いていた。》
宮内が舞台の「にせあぽりや」
小田仁二郎は、明治43年(1910)、南陽市宮内、今の宮内公民館の東隣にあった小田医院の次男として生まれた。杵屋本店が実家で、小柄で品ある母たかさんは私にもよくわかる。「自我至上の生き方うたがひ街を歩く生あたたかき風の吹く夕べ」の歌を残す。この母の歌に、小田が文学へ向かわざるを得なかった心の原点を思う。母たかは、小田文学の最良の理解者だったにちがいない。「ふるさとの味をしのべと東京の吾子に色よき枝豆送る」の歌もある。
「自我」をどう始末するかは、近代以降、文学の根っこにある課題だった。小田もこの課題に挑む。「にせあぽりや」と「触手」の二篇が収まる『触手』は、戦争の最中に在って考え続けてきたその回答書だった。終戦まもない昭和23年(1948)の刊行だ。
当時新進気鋭の評論家福田恆存による巻末解説が付く。《近代人の感覚は既成概念や意識の歪曲にあって、すっかり摩滅し、死にはてて居る。小田仁二郎はいま、なんら既成概念も先入観もなく初めてこの世界に入ってきて、感覚以外のなにものも隔てずに直に現実に接触する嬰児の、あの原初的な一人称を回復せんと企てるのだ。》
「触手」に先立つ「にせあぽりや」。「アポリア」はギリシア語 で「解きがたい難問」「行き詰まり」の意。自死を択んだ芥川龍之介や太宰治をあざ笑うかのように「にせあぽりや」(偽アポリア)の言葉で終わる。
クライマックスは、宮内の十文字から熊野参道とその先の大銀杏を望む光景だ。
《私は、四つ辻にたち、北をむいた。四つ辻の、ひそかな竜巻もおち、あたりの静寂が、死の重さで、私を圧しつぶす。ただ私の眼のそこには、つまさきあがりの通りのはて、その梢に寒雲をつき、葉のおちつくした銀杏の大樹が、凝然とそびえたっているのである。町は廃墟となり銀杏の大樹に変じた。私の町は一樹の銀杏と化したのである。猛然と竜巻が砂塵をまきおこし、銀杏も廃墟も一瞬にしてその底に壊滅した。》
寂聴さんの「予言」
平成3年(1991)10月28日、小田仁二郎の同級生達の発案に南陽市文化懇話会が呼応して、生家のすぐ近く、宮内公民館の一角に文学碑が建立なった。碑には、寂聴さんによって一文字一文字拾い集めて綴られた「触手」冒頭の一節が刻まれている。既成の一切を破壊し尽した上での、だれもなし得なかった新たな文学世界の展開という小田文学を象徴する一文だ。
除幕式の日の講演で寂聴さんはこう語った。「その一冊(『触手』)が、将来私も死に、あるいは遺族も死んで何十年かたった時に、日本だけではなく世界の文学として取り上げられ、翻訳され、日本の歴史の一つの文学の流れの中で、ある峯だとして見直される時が必ず来ると私は予言いたします。」
その予言にはたしかな裏付けがある。
「井筒俊彦さんが小田仁二郎の『触手』の文章を『これは言語学的にすばらしいものだ。』というふうにおっしゃいました。・・・それを聞いて小田仁二郎は、私が一緒におりました歳月の中でいちばんうれしそうな顔をしたのをおぼえております。」
井筒俊彦は「20世紀の日本が生み落とすことができた最大かつ最高の思想家」(安藤礼二)と言われる。世界中の言語に通じ、最も深みでの東西思想共通理解を目指す井筒ワールドは、知るほどに広く、且つ深い。7年前の生誕100年を機に全集13巻が刊行され、評価は年ごとに高まる。『コーラン』訳も業績のひとつである。
その井筒と小田の交流について、後に寂聴さんが記した文章がある。
《(1956年頃、小田と一緒のとき)私の下宿に突然未知の女性が訪れた。上品な物静かな人は井筒豊子と名乗り、「Z」の同人になりたいと言う。華奢で消え入りそうな風情なのに、言葉ははきはきして、相手の目を真直見て、「主人の井筒俊彦が、小田さんの『觸手』を拝見して、私に小説の御指導をしていただけと申します。」と言葉をつづける。めったにものに動じない無表情な小田仁二郎が驚愕したように背筋を正し、「井筒俊彦さん・・・・・あの言語学の天才の・・・・・」豊子さんはそれを承認した微笑をたたえて、わずかに顎をひいた。その時から私たちと井筒夫妻との有縁の時間が始った。》(『井筒俊彦全集』第4巻月報 2014)
小田は《わからないとは何であるか。わかろうとしないことである。精神の怠惰にすぎないのではないか。》(『文壇第二軍』)の言葉を残している。私にとっての小田文学理解は、井筒ワールド理解と表裏をなす。
寂聴さんも冥界へと旅立った。そして今、昨年からのコロナ騒ぎ。まだ「治験中」という得体の知れぬワクチン接種を受け容れ、お互いの顔が半分しか見えない日常を当然とする異常さに、80年前小田が生きた戦時の暮らしが重なる。息詰まりつつ、「なにがほんとうか」を問い続けた末に生み出されたのが、『にせあぽりや』であり『触手』であったことの意義をあらためて考えさせられる。今まさに小田文学理解の秋(とき)なのかもしれない。
私には思いがけない寂聴さんの訃報だった。99歳なのだからいつどうなっても驚くことはないはずなのだが、寂聴さんはまだしばらくは大丈夫、と勝手に思い込んでいた。小田仁二郎のひとり娘金沢道子さんから、宮内を舞台にした「にせあぽりや」刊行の了解を得ている。それを持って寂聴さんにお会いし、直にいろいろお聞きしたい。特に、井筒俊彦さんとの交流のこと・・・まだまだ生きていて欲しかった。
「瀬戸内さんとの会話は、ほとんどの時間が笑顔で、その存在そのものが心の支え」という作家平野啓一郎氏の追悼文(山形新聞)に、あちらで寂聴さんを迎える、笑みを含んだ仁二郎の顔が思い浮かんだ。10年近い二人の歳月、いい時間だったちがいない。
小田仁二郎と瀬戸内晴美。二人の出会いは昭和26年(1951)、小田41歳、瀬戸内29歳の時だった。小田が定期的に瀬戸内に通う半同棲の日々が8年あまりつづく。その後、前の若い男が絡んでなしくずしの別れにいたる。その経験を題材にしたのが瀬戸内の出世作『夏の終り』(昭37)。小田は慎吾の名で登場する。
《慎吾の留守に一人でした経験のすべてを、慎吾の顔を見るなり息せききって告げ、一つのこらず話してしまうと、はじめてそれらの経験がじぶんの中に定着するのを感じた。無口で非社交的で、経済力のない、世間の目から見れば頼りない男の典型のような慎吾に、知子は全身の鍵をあずけたようなもたれかただった。》
『夏の終り』は昭和38年、女流文学賞を受賞する。その受賞式での小田との邂逅が、自伝小説『いずこより』に感動的に描かれる。
《受賞式の席上、私は場所柄もがまん出来ず、挨拶の途中で、涙につきあげられて絶句した。この貧しい作品にこめられた小田仁二郎との十年にわたる歳月の想い出が私の立っている足をすくいそうになった。私は彼から、小説を書くことを教えられ、認められるチャンスを与えられ、励まされた。何よりも私は彼との生活によって、文学の質の高さとか低さというものを言葉ではなく、皮膚から教えこまれた。女として充実した美しい恋の日々を与えられた。》
瀬戸内は、ホールにいる客の中に、来賓として招かれていた小田を探し出す。
《壁ぎわで笑っているなつかしい顔があった。「ありがとうございました」私は人が見ていることも忘れて深いお辞儀をしていた。「よかった、ほんとによかった」低い私にしか聞きとれない彼の声を私は吸い込むように聞いた。私は泣いていた。》
宮内が舞台の「にせあぽりや」
小田仁二郎は、明治43年(1910)、南陽市宮内、今の宮内公民館の東隣にあった小田医院の次男として生まれた。杵屋本店が実家で、小柄で品ある母たかさんは私にもよくわかる。「自我至上の生き方うたがひ街を歩く生あたたかき風の吹く夕べ」の歌を残す。この母の歌に、小田が文学へ向かわざるを得なかった心の原点を思う。母たかは、小田文学の最良の理解者だったにちがいない。「ふるさとの味をしのべと東京の吾子に色よき枝豆送る」の歌もある。
「自我」をどう始末するかは、近代以降、文学の根っこにある課題だった。小田もこの課題に挑む。「にせあぽりや」と「触手」の二篇が収まる『触手』は、戦争の最中に在って考え続けてきたその回答書だった。終戦まもない昭和23年(1948)の刊行だ。
当時新進気鋭の評論家福田恆存による巻末解説が付く。《近代人の感覚は既成概念や意識の歪曲にあって、すっかり摩滅し、死にはてて居る。小田仁二郎はいま、なんら既成概念も先入観もなく初めてこの世界に入ってきて、感覚以外のなにものも隔てずに直に現実に接触する嬰児の、あの原初的な一人称を回復せんと企てるのだ。》
「触手」に先立つ「にせあぽりや」。「アポリア」はギリシア語 で「解きがたい難問」「行き詰まり」の意。自死を択んだ芥川龍之介や太宰治をあざ笑うかのように「にせあぽりや」(偽アポリア)の言葉で終わる。
クライマックスは、宮内の十文字から熊野参道とその先の大銀杏を望む光景だ。
《私は、四つ辻にたち、北をむいた。四つ辻の、ひそかな竜巻もおち、あたりの静寂が、死の重さで、私を圧しつぶす。ただ私の眼のそこには、つまさきあがりの通りのはて、その梢に寒雲をつき、葉のおちつくした銀杏の大樹が、凝然とそびえたっているのである。町は廃墟となり銀杏の大樹に変じた。私の町は一樹の銀杏と化したのである。猛然と竜巻が砂塵をまきおこし、銀杏も廃墟も一瞬にしてその底に壊滅した。》
寂聴さんの「予言」
平成3年(1991)10月28日、小田仁二郎の同級生達の発案に南陽市文化懇話会が呼応して、生家のすぐ近く、宮内公民館の一角に文学碑が建立なった。碑には、寂聴さんによって一文字一文字拾い集めて綴られた「触手」冒頭の一節が刻まれている。既成の一切を破壊し尽した上での、だれもなし得なかった新たな文学世界の展開という小田文学を象徴する一文だ。
除幕式の日の講演で寂聴さんはこう語った。「その一冊(『触手』)が、将来私も死に、あるいは遺族も死んで何十年かたった時に、日本だけではなく世界の文学として取り上げられ、翻訳され、日本の歴史の一つの文学の流れの中で、ある峯だとして見直される時が必ず来ると私は予言いたします。」
その予言にはたしかな裏付けがある。
「井筒俊彦さんが小田仁二郎の『触手』の文章を『これは言語学的にすばらしいものだ。』というふうにおっしゃいました。・・・それを聞いて小田仁二郎は、私が一緒におりました歳月の中でいちばんうれしそうな顔をしたのをおぼえております。」
井筒俊彦は「20世紀の日本が生み落とすことができた最大かつ最高の思想家」(安藤礼二)と言われる。世界中の言語に通じ、最も深みでの東西思想共通理解を目指す井筒ワールドは、知るほどに広く、且つ深い。7年前の生誕100年を機に全集13巻が刊行され、評価は年ごとに高まる。『コーラン』訳も業績のひとつである。
その井筒と小田の交流について、後に寂聴さんが記した文章がある。
《(1956年頃、小田と一緒のとき)私の下宿に突然未知の女性が訪れた。上品な物静かな人は井筒豊子と名乗り、「Z」の同人になりたいと言う。華奢で消え入りそうな風情なのに、言葉ははきはきして、相手の目を真直見て、「主人の井筒俊彦が、小田さんの『觸手』を拝見して、私に小説の御指導をしていただけと申します。」と言葉をつづける。めったにものに動じない無表情な小田仁二郎が驚愕したように背筋を正し、「井筒俊彦さん・・・・・あの言語学の天才の・・・・・」豊子さんはそれを承認した微笑をたたえて、わずかに顎をひいた。その時から私たちと井筒夫妻との有縁の時間が始った。》(『井筒俊彦全集』第4巻月報 2014)
小田は《わからないとは何であるか。わかろうとしないことである。精神の怠惰にすぎないのではないか。》(『文壇第二軍』)の言葉を残している。私にとっての小田文学理解は、井筒ワールド理解と表裏をなす。
寂聴さんも冥界へと旅立った。そして今、昨年からのコロナ騒ぎ。まだ「治験中」という得体の知れぬワクチン接種を受け容れ、お互いの顔が半分しか見えない日常を当然とする異常さに、80年前小田が生きた戦時の暮らしが重なる。息詰まりつつ、「なにがほんとうか」を問い続けた末に生み出されたのが、『にせあぽりや』であり『触手』であったことの意義をあらためて考えさせられる。今まさに小田文学理解の秋(とき)なのかもしれない。
2022-01-02 18:49
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