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新・mespesadoさん講義(52)”知”からの自由を [mespesado理論]

亀さんとmespesadoさんのやりとりで紹介された「悪の遺産ヴェネツィア」については、実に興味深く読んだ。→「『カバールの正体』(3)”知”は、最後は、狂気に至る」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2021-07-28

教科書的知識から逸脱した分「変わり者」と呼ばれる。「変わり者」の真実性を保証するのは「審神者(サニワ)力」である。「審神者力」とは何かといえばおそらく、「己れからの解放の度合い」なのではないか。そうしたことが問われる世の中になってきた、そんな気がする。「神に近づきつつある」とも言えそうだ。マドモアゼル・愛さんが「”知”は、最後は、狂気に至る」と言った→https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2021-07-28”知”から自由になること。

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401:mespesado :2021/07/25 (Sun) 08:30:36
>>400
 こちらこそ、仕事で忙しい中、光速のご返事ありがとうございました。

> ともあれ、黒い貴族については、拙稿「悪の遺産ヴェネツィア」を一読
> ください。
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-769.html

 この記事、亀さんの過去記事は主要なものは既に読んだはずなのですが、今回は初めて読んだ気がしています。実際初めてなのか、読んだことを忘れていただけなのかは思い出せませんが、これを読んでつくづく思ったのは、
# 学問の不自由

# 「甘ったれるんじゃねえ」というお叱り
の二つの(天の?)声です。
 まず最初の「学問の不自由」ですが、学問の真髄と言える域に至るには、いわゆる「教科書」をマスターするだけでは絶対に到達できない、ということを今回は思い知らされました。これは、自分でも、経済学というのがまさにその典型的な例であり、いわゆる主流派の経済学の教科書は、そのベースそれ自体が「供給不足の時代を無自覚に当然の前提として書かれている」という致命的な欠点があるために、いくら教科書をマスターしても、正しい議論に到達できない、ということは自分でわかっていたつもりでした。そして、これは製○会社に支配された医学の教科書もまたしかり。そして、亀さんのリンク先の記事は、「歴史学」もまたそうであることを教えてくれている。歴史学というのは因果な学問で、利害当事者が「現代」も存在しているため、近代史を中心に、「本当のこと」が、判明していても、「オトナの事情」によって、教科書には書けない、という場面がしばしばあります。これはGHQの洗脳の話でわかるとおりですし、近世についても、「近代民主主義」の「夜明け」とも称せられる「フランス革命」の本質が「成金企業家による王侯貴族からの権力簒奪」であったことまでは、民主主義絶対視の今日では、タブーでこそないものの、そういう「本質」は、露骨過ぎて、その成金企業家とやらへの忖度などのオトナの事情により、やはり学校教育で採用される教科書には書けない。ですが、実は、そんな現代に近い時代だけでなく、現代に生きる人に直接利害などありそうもないと普通は考えられている「古代史」にも実は大きなタブーが存在していることを、リンク先で紹介されている『悪の遺産ヴェネツィア』の終章は教えてくれていると思います。
 これを私は「学問の不自由」と名付けてみました。これは、欧州における、「ホロコーストを否定するような学問の禁止」のような露骨な禁止政策だけでなく、表面上は禁止はされていないけれども、教科書だけ読んでいても決して気付くことができないことなので、事実上、学問の「自由」が存在していないのと同じことになってしまうことによります。
 ですが、もし、他人からの押し付けではなく、自らの意思で、学問をしようと考える人が、「教科書に書いてないんだから知らないのはアタリマエだ。オレのせいじゃねぇ」などと言おうものなら、私が2番目の#に書いたように、「甘ったれるんじゃねえ」とお叱りがある。それもまた、当然の話だと思います。だって、現に上のリンク先の『悪の遺産ヴェネツィア』の内容は、天童竺丸氏が(そして同様に悟っている亀さんご自身も)、そんな「学問の不自由」の中で、ちゃんと古代から現代に至る真相を実際に掴んでいるわけですから。
 ともすると、純粋な思弁だけで、経済学で大多数の人が目覚めていない、「貨幣の真実」に気付いちゃったりすると、思わず「俺ってスゲー」と有頂天になりがちですが、他方でワ○チ○の真実みたいに、純粋な思弁だけでは正しい理解が得られない、きちんと医学・生理学的事実を、ほんの基礎の部分でもいいから勉強しないと、真相に到達できない、という学問分野もあるのだ、という自戒が必要ですね。そして、更に、まさか「古代史」の知識が「現代」の、それも単なる「歴史学」という一種「道楽」の世界の範疇で閉じているのではなく、我々の日常の生活や、場合によっては命までも左右する「実学」の世界の理解にも甚大な影響を与えているという学問分野もあるのだ、ことを、恥ずかしながら、私も今改めて実感した次第です。

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