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足立守先生『足立アヤコの生涯』 [こども園]

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出雲にお住まいの足立守先生から、足立アヤコ先生の思い出の写真集が届いた。守先生ももう90歳だ。アヤコ先生が亡くなられたあと、高齢者の施設に移られ、その中で今回の冊子をまとめられた。表紙の写真と裏表紙の守先生のスケッチを見て、今の様子をお知らせしたくて写真を撮ってきた。

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アヤコ先生が亡くなられたのが2018年11月14日。島根大学に献体され、翌年の3月、告別式に参列してきた。→「アヤコ先生お別れ会(出雲のぞみ教会)」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-04-01 その時の弔詞に幼稚園時代の記憶などは大人になればすっかり忘れてしまいます。私もそうでした。しかし、高校卒業後家を離れ、10年ぶりにふるさとへ戻って間もなく、足立先生から引っ張られて幼稚園にさまざまなかたちで関わるようになったのですが、幼稚園時代の記憶がよみがえるごとに、その当時のことがいかに自分の基礎を形づくっているか、まざまざと思わされるのでした。それを思うにつけ、アヤコ先生が宮内に育った人たちにどれだけ甚大な影響 を及ぼしたことかを思わされます。》と書いた。

15日、獅子冠事務所の精進固めで納所(なっしょ)長のKが私に語った。「おれたち(私も含む)みたいな”変わり者”が育つ教育でなければダメだ、と同級生のK(元校長)がいつも言ってる。あの幼稚園出たからこうなった。」この言葉に、これまで気づいていなかった宮内幼稚園以来の伝統のようなものをあらためて思った。そういえば、K納所長にもK元校長にも南陽学園の評議員を去年から務めてもらっている。そのことで60年前の自分をふりかえってみることになったのか。そんな折に届いたアヤコ先生の写真集でした。

 

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めい

記事に書いた「元校長」のいい文章を見つけました。

   * * * * *

「教師の自立」に寄せて
南陽市教育委員会教育委員 鎌田 一郎

教職について数年を経た頃だろうか。馴染みの珈琲店「S」のカウンターでいつものブレンドを啜っていると、店主のI氏からこう聞かれた。「鎌田君、学校教育は法的な制限の中でなされているわけだろう。君の自由な感覚、行動はかなり規制されるんじゃないか」。「いや、自由にできていますよ」。偽らざる正直な気持ちで私は答えたが、彼が続ける。「教育基本法や様々な学校法に縛られてなされているわけだろう」。前後の議論は記憶の湖底に沈んでしまったが、このやりとりだけは今でも色褪せることはない。国策としての教育、その理念と構造への意識乏しく、個性の発露に軸足をあずけながら自足し、安穏としている己の情況が見透かされたようで悔しかったが、教師として担うべき根本への問いかけに違いなかった。日をおかずして私は、小学校への入学を控えた愛娘を思う彼の、父親としての心情にふれる。「いうならば、通過せよ学校・・・、というのかなぁ」。

学びの本質は学び手が学びを通していかに成長するかであり、多様で個別的な学びの環境と呼応してしかるべきであろう。本来的には学校にいくことで学びが約束されるものではない。だが、現況を生きるに、学校教育、とりわけ義務教育との関わりは肯定的に踏まえざるを得ない。個性や持ち味、社会性や倫理観が磨かれる保証はなく、子どもの資質・能力や努力に反してその逆も起こりうる。健やかに強いられし学校という環境だからこそ、その中で自分のありようを完結させることなく未来に向けて・・・。娘よ、学校を通過してくれ。

教育改革のもとに、教育施策が増殖的に示されている。グローバル化が加速する中、世界で活躍する人材の育成が国家にとっての喫緊な課題とされ、連動し現場ではアクティブ・ラーニングの実践・実効化に腐心している。また、深刻さを増すいじめ問題への措置が行政主導でなされてもいる。だが、私にはこのような教育状況がしっくりと視えてはいない。批判的・複眼的に踏み込んで考え、自分なりの責任を付したものにしなければならず、現職の折も今も、その作業は常に現在進行形といえる。多分このことは、示された施策のパッケージやフォルムをなぞり過ぎることへの自戒も含めて、私だけに限ったことではないはずだ。無論私たちは公教育の体現者であり施策の実践化・普及が責務であることは自明だ。肝要なのは、自分を賭しての自問自答を通した理念・論理・構造・方策の批判的、複眼的な再構成であろう。批判は嫌悪したり否定したりすることではない。物事の根本を踏み込んで問う姿勢であり、物事の自分なりの実像化は教師の内なる自立を支えるものだと思う。国や県、市町村の教育哲学や方法論がいかに優れていようとも、あるいはその逆でも、事の成否は子どもたちと生々しく関わる教師一人ひとりのありよう、日々の現実に懸っていることを思えばなおさらだ。

例えば、世界で活躍する人材の育成。世界の構造・関係性という視点から現状を照らせば、切実な国家の課題ではある。だが、世界では通用しなくとも、故郷に根付き素朴な日々を生きる多くの人たちの人生模様に、教育がどう花開き沁みわたるのか。表裏一体の課題として捉え心して実践しなければ、とりわけ義務教育の意義が薄れよう。

そして、陰湿に堆積する深刻ないじめ問題。いじめの根絶は教育に携わる者として異論はない。そのための調査や対処システム、外部機構との関係等が整備され指導体制が向上し、教師のみたてや関わりも細やかになっている。より嗅覚鋭く向き合わなければならない。だが同時に、いじめなんかで絶対に死ぬもんか、という心の力をしたたかに育むことが大事ではないか。どのような生き方をするにせよ、様々な困難や世情の辛さを避けては通れない。この二つの視点は矛盾するものでもなく、教育が担うべき深層なのだ。そしてまた、いじめ問題への取り組みは、いじめの現象・事案の奥底を洞察する根本的な生徒指導観こそが命綱になるものと思う。

知らず皮膚感覚に偏り、「いや、自由にできていますよ」と発した己への疑念、危うさの自覚とともに、I氏の学校観・硬質な眼差しは、今も私の思考に息づき私なりの教育観を陶冶している。学校は自由にできるはずもなく、かといって不自由に束縛されるものでもない。そして、未熟な子どもにやはり不完全であろう教師が愛情をもって関わるなら、学校は子どもたち一人ひとりの現在を彩り、未来にむけた成長の物語を紡ぐ場所になる、いや、そうしなければと私は思う。

所報No.238
平成30年2月15日発行
発行: 南陽市教育研究所情報センター

by めい (2021-09-06 04:53) 

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