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一般質問原稿 [議会]

一般質問原稿、今朝書き終えて、再質問については特に用意せず、訴えるべきことを生の言葉で訴えることにして臨みました。「質問でなくて自分の主張の演説だ」と言われました。用意した登壇原稿はちゃんと質問になっています。転載しておきます。

再質問で確認したことは、次の3点。①山形県の場合、全く大騒ぎするほどもない新型コロナのために、なぜリスクを承知でワクチン接種をしなければならないのか。市の立場としてはこの風潮の中で独自の判断で対処するというのは難しいとは思うが、マスコミ報道に惑わされることなく、市民の真の健康を考えた対処をしてほしい。ネットや書籍等、一般マスコミ以外の情報にも気を配り、何がほんとうかを見極めた上での臨機応変の対応を望む。10万円給付とはちがう。スピードや接種率を競う功を焦ってはならない。②昨年の南陽市の自殺者数は1人。前年までは平均6.4人だった。死にたくなるのは自分だけ苦しいと思うから。去年は「みんな苦しいんだ」と思えるから死なずに済む。しかしほんとうに大変になるのはこれから。支援するための制度や仕組みをつくってそれで事済んだのではない。具体的な手立てが必要。市役所は南陽市の人材の宝庫。職員の知識、知恵、立場をフルに活かし、民間の力もおおいに活用しながら、ここに来れば死にたくなくなるような具体的手立てを講じて欲しい。③われわれが立脚すべき土台は、「南陽」でなく「置賜」。世界に先駆ける自信を持って、新しい時代を切り開け!・・・そんなところか。

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 昨年3月の選挙からまもなく1年になろうとしています。この1年間新型コロナに翻弄された1年でした。
 人類の歴史は感染症との戦いの歴史であったとも言われます。私の家に残る記録によると、今から187年前、大飢饉の最中の天保5年6月のこと、「毎日熱病にて一人二人ずつ死す。はやり風邪にてお獅子さま町へ出る」とあります。毎日死人が出る流行り病でお獅子さまの出動を願わねばならなかったのです。また、「明治十九年における山形県のコレラ流行」という竹原万雄東北芸工大准教授の論文によると、明治19年の山形県のコレラ患者数2,217名、そのうち亡くなった人が1,510名、致死率は実に68%、コレラにかかったら最後、3人に2人は死ななければならなかったのです。それに比べて今の新型コロナはどうか。山形県だけ見れば、感染者544名、亡くなった人は15名です。感染者543名というのも、PCR 検査で陽性となった人の数で、発症した人ではありません。そもそもPCR検査の発明者自身が、「私の発明が、誤って使われている。ウイルス検査に使われるなら、PCRはこの世から消え去ってもいい」と言って亡くなっているのです。PCR検査は、検体をどれだけ増幅させるかのCt値によって陽性者数は大きく変動するとのことで、最近の陽性者数減少は、これまで高過ぎた45から国際基の35に引き下げられたことによるそうです。死亡者数にしても、新型コロナが感染法上二番目に危険なⅡ類とされていることから、なんの病気であれなんであれ、PCR 検査で陽性ならば新型コロナによる死亡に数えるようにとの厚労省の指示に基づく大きく水増しされた数字です。事実、コロナ前の一昨年とコレラ騒ぎの始まった昨年の死亡者数を見ると、昨年の方がかえって死亡者が少なく、厚労省もその理由がわからないということで、例年12月下旬に公表している人口動態の年間推計の公表を、1971年の推計開始以来初めて見送っています。
 実際にコロナのせいで重症化したり亡くなったりする人がいるわけでその人、その家族にとっては深刻です。しかしここで「誰ひとり取り残さない」という SDGs精神で考えるのはまちがいです。木を見て森を見ず、マクロの視点とミクロの視点をゴッチャにしてしまうことで物事の本質が見えなくなってしまいます。ひとりひとりレベルをそのまま全体と考えて全体像を歪める愚を侵してはなりません。マスコミ報道は往往にしてその傾向があることに注意すべきです。「医療崩壊」にしても、そのいちばんの震源地の東京都が、国の示すコロナ重症患者用ベッド数基準を取り違えていたということで、ここにきて重症者ベッド使用率を86%から28%に修正するという茶番ぶりが明らかになっています。おおげさに危機を煽り、非常事態の先延ばしを画策する小池都知事の言動を見るにつけても、「日本人のくらしを壊す気か!」と怒鳴りつけたくなる衝動が抑えきれなくなるのであります。
 さて、こうした中での国を挙げてのワクチン接種キャンペーンであります。
 この度の新型コロナワクチンに限らず、ワクチンそのものがいかがわしい歴史を抱えています。そもそも人間に本来備わる免疫力をないがしろにするところからワクチン接種の考え方が始まります。人間に悪影響を及ぼすウイルス等が侵入する前に、ウイルス毒を人体に植え付けることで人工的な抗体を作っておこうという考えです。”ワクチンの父”といわれるジェンナーの種痘法自体、実際は天然痘を撲滅するどころかかえって爆発的に拡大させた歴史があり、ジェンナー自身「私は恐ろしい間違いを侵してしまったのではないか」と後悔してこの世を去ったのだそうです。ワクチンの効果についても、多くは感染のピークを過ぎた時期の接種によって、さもワクチンのおかげのような宣伝が行われていることがデータから明らかにされています。あまり言いたくはないのですが、昨年11月ファイザー社がワクチンの有効性を記者発表した途端、ワクチン関連製薬株が急上昇、モデルナのCEO最高経営責任者は1年間で4倍にもなっていた自社株を50万株売って巨額の利益を得たと言われます。ワクチンそのもので儲ける前に株で儲ける仕組みです。常に利権の影がつきまとうのが、ワクチンに背負わされた宿命のようです。
 さらに新型コロナワクチンの特異性は、遺伝子ワクチンであることです。新型コロナウイルスそのものの特定がまだなされていないための対処法とのことですが、新たな遺伝子が人体に入り込むことで将来的にどのような影響がでるかはだれにもわからないのがほんとうのところです。いわば壮大なる人体実験が始まりつつあると言っても過言ではありません。
 いずれにしても、広く行われているワクチン接種キャンペーン、安易に乗るのではなく、現状を正しく理解することが何より大事なことです。行政においては、真に市民の安全と健康を守りぬくために、確かな情報網を張り巡らした上での臨機応変、慎重にことを運ぶことが肝要と考えます。昨年5月の10万円定額給付金配布の場合とは全く事情が違うことを理解していただかねばなりません。
 以上、私の認識について述べてまいりましたが、あらためて、以下の2点について市当局の認識をお尋ねいたします。
 ひとつ、コロナ禍の現状をどう考えるかについてお聞きします。
 「パンデミックよりインフォデミック(情報撹乱)が怖い」とも言われます。行政の立場としては、まちがった報道に惑わされることなく、しっかりした事実認識に基づいて世論を導いてゆくことが何より重要と考えます。確かな事実をしっかり踏まえて市民の不安を抑えることも行政の大きな役割であります。その上でどんな状況の変化に対しても臨機応変の対応が可能になるはずです。
 もうひとつは、ワクチン接種についてです。? 厚労省のHP には、「新型コロナワクチンの接種は、国民の皆さまに受けていただくようお勧めしていますが、接種を受けることは強制ではありません。しっかり情報提供を行ったうえで、接種を受ける方の同意がある場合に限り接種が行われます。/予防接種を受ける方には、予防接種による感染症予防の効果と副反応のリスクの双方について理解した上で、自らの意志で接種を受けていただいています。受ける方の同意なく、接種が行われることはありません。/職場や周りの方などに接種を強制したり、接種を受けていない人に差別的な扱いをすることのないようお願いいたします。」としっかり書いてあります。このことを市民に周知徹底させることが重要です。マスコミが作る世論に迎合して「スピード」や「接種率」等の功を焦ってはなりません。? ワクチン接種について、南陽市における今後の見通しとともに、現時点での「副反応」についての認識についてお尋ねいたします。 


 つぎに、「施政方針」に関連しての質問です。今、南陽市の貴重な財産であるハイジアパークの行く末の鍵を握る奥山清行氏が、デザインの出発点を、顕在化した需要である「ニーズ」ではなく、まだ潜在的な需要である「ウォンツ」を掘り起こすことと言われてなるほどと思ったことは6月議会で申し上げました。以来この考えずっと頭にあります。「ニーズ」の把握にとって大事なのが「目配り」とすれば、「ウォンツ」はどうやれば見つかるか。今言えるのは、まずもっておのれから始まるもろもろの肉声に耳を傾けることから始まるということです。そこで、市長の肉声を聞かせていただくつもりで、施政方針を読ませていただきました。
 市長の肉声を私は最後の「結び」の文章から読み取りました。「人、遠き慮りなければ、必ず近き憂いあり」という言葉を「身の丈に合った対話のある市政」をかかげる市長らしい引用と理解し、市長就任時以来のその一貫性を評価したいと思います。しかしその一方には、「遠慮が過ぎると無沙汰になる」という言葉もあるようあります。「無沙汰」の「沙汰」は「物事の是非を見分ける」という意味で、あまり先ばかり見ていると肝心な物事の是非がわからなくなるということです。先が見えなくなってしまったコロナ禍の今、何を頼りに先に進むか、そこに出てくるのがまさに「ウォンツ」です。これまでだれも思いつかなかった新たなものが生まれるとすれば、まさに今のような時代なのではないかと思えるのです。そのためには、遠慮は無用、今思うことを思いっきり本音でぶっつけ合うことこそが求められるのです。いわば、混沌、カオスの中から現れてくる真実を掴み取る意気込みを期待したい。そう思いつつ私の中から湧いてきた思い二点について質問いたします。? まず、「セーフティネット」の構築についてです。
 コロナ禍はスムーズな経済の流れをかき乱しました。週刊東洋経済の最新号には「危機はこれからが本番!コロナ倒産最終局面」として、倒産の危険度に応じた上場企業504社のランキングが発表されています。大企業においてさえそうなのですから、われわれの身近なところではもっと深刻です。1年目はドサクサのうちの救済措置や有利な借金などでなんとかしのいだもののこれからが大変です。世の中の激変についてゆけない人が出てくるのはこれからです。?①コロナ禍がもたらす自殺予備軍(もう生きてゆけそうにない)の現況把握と将来予測は。?②経済的・精神的「セーフティネット」の構築についてどう考えるか。? もうひとつは、施政方針にさらっとだけ出てくる「置賜定住自立圏」による広域行政についてです。
 今から41年前の昭和55年、当時の宮内、赤湯、和郷の商工会青年部が中心になり、新山市長はじめ、行政も積極的に関わり、「いかにして”南陽衆”たりうるか?』というシンポジウムをやったことがありました。バックボーンが全くちがう2町1村合併したものの本音の出しにくい空気を当時の青年たちは感じていました。そこをなんとかぶち破ろうというチャレンジでした。その時の課題は今もずっと引きずったままであることは、先日の振興審議会であらためて感じさせられました。第6次総合計画案を読んで、南陽市独自の歴史性が感じ取れないとの意見が出されたのでした。言い換えれば、よくまとめてはあるが肉声が聞こえないということです。ここを乗り越えるのが「置賜定住自立圏」による広域行政の重視と私は考えてきました。
 梨郷出身の小関悠一郎千葉大学准教授が出された岩波新書の『上杉鷹山ー「富国安民」の政治』が話題になっています。200年前、鷹山公の治世を学ぶために全国から多くの人がこの地を訪れたことが書かれています。置賜にそういう時代があったことを誇らしく思えました。先週の水曜日の NHKBS「英雄たちの選択」に鷹山公が登場しました。小関先生も出演しています。明日の朝8時から再放送されますので見逃した方は是非見ていただきたい。借金に苦しんで領地返上を考えるまで追い込まれた米沢藩が、藩を思う家臣の一人一人が、文字通り命がけの対立を乗り越えて藩政を立て直す経緯がわかります。この置賜にそうした歴史があることに自信を持って、世界の先陣を切るつもりで、コロナ後の新しい世界を切り開いていかねばなりません。その土台はこの置賜に確実にあることを200年前の歴史が教えてくれます。? そこでまず、その「置賜定住自立圏」構想の現状についてお聞かせください。? そして、置賜の誇るべき歴史を土台に、置賜が一つになって当時の再現を目指せないかについてお聞かせください。
 ついあれもこれもと詰め込んでしまいましたが、いずれも私にとっては切実な課題です。熱い答弁を期待したいと思います。よろしくお願い申し上げます。

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【追記 2021.3.30 山形新聞】

地域食堂 2021.3.30.jpg

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めい

「セーフティネット」→「タイガーマスク弁当」‼️
https://www.nhk.or.jp/shutoken/wr/20210305a.html

by めい (2021-03-16 07:38) 

めい

「地域食堂 順調スタート」
2021.3.30 今朝の山形新聞記事、追記しました。
南陽・Zu-Zuの「あまやどり」の実践に期待します!
by めい (2021-03-30 06:21) 

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