mespesadoさん講義(63)「突き抜ける」 [mespesado理論]
亀さんが、《> 物質から精神へと言う内容では語りきれない変化 /小生は上掲の拙記事で、その変化を「霊性」と表現しました。霊性とは、単なる精神世界を意味するだけのものではなく、人類全体をも巻き込む、大きな大転換(脱皮)へと我々が向かうための、一種の〝エンジン〟とでも云うべきものです。この流れは、最早DSが現在行っている小細工(流れを止めようとする悪業)程度では、とてもではありませんが防ぎ止めようのない、巨大な流れになりつつあります。》(261)と語られた。まさに今直面するパラダイムシフトを思った。出世外人さんが絡む今回の議論に「突き抜け」感覚を感じて貴重に思えた。今の時代、いろんな場面で「突き抜ける」ことが大事なのだ。そう思いつつ、これまで書いてきた記事から「突き抜け」という言葉を探したら8箇所ヒットした。それぞれ「なるほど」と思った。
・
* * * * *
・
《「小田仁二郎の試行は近代を根底で突き抜けた」、福田はそう評価したのでした。だからこそ、近代の弊がもろもろ明らかになりつつあるいま、時代はようやく小田仁二郎に追いついたのです。ほんとうに小田仁二郎のすごさがわかるのはこれからです。》https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2014-11-03
・
《「われわれの祖先は、この至大の苦悩に徹し切つたればこそ、「あはれ、あなおもしろ、あなたぬし、あなさやけおけ」の境地に突き抜けることができたのであらう。」(鴨居清雲)》https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2016-03-04
《「『型』を破るという関門」を突き抜けられるトップは、残念ながら非常に少ない。」(東洋経済)》
https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2017-11-01
《アンケートが用意されていて「点数つけると何点?」に90点をつけてきた。満点でなかったのは、「突き抜け」感が感じれなかったこと。》https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2018-02-26
《「結局「経済」に対する誤解の払拭こそが重要なターニングポイントなんですが、残念なことに、そこが突き抜けることができていない。」(mespesadoさん)》https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-06-09
《何よりも、「しなければならない」感覚でなくて、「おもしゃがってる」感覚が充満していたことがいい。その結果として、「突き抜け」ていた。昨年2月の「めざせ100万円!南陽若者コンペティション」にはなかった「突き抜け」感をこの日は感じました。》https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-11-20
《井筒俊彦著『イスラーム哲学の原像』について。「神秘主義」のその突き抜けた先を見せてくれている。》https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-02-17
《「今の教育制度では、日本から突き抜けた天才は出てきにくくなっている。」(堺のおっさん)」》https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-05-06
《「『型』を破るという関門」を突き抜けられるトップは、残念ながら非常に少ない。」(東洋経済)》
https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2017-11-01
《アンケートが用意されていて「点数つけると何点?」に90点をつけてきた。満点でなかったのは、「突き抜け」感が感じれなかったこと。》https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2018-02-26
《「結局「経済」に対する誤解の払拭こそが重要なターニングポイントなんですが、残念なことに、そこが突き抜けることができていない。」(mespesadoさん)》https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-06-09
《何よりも、「しなければならない」感覚でなくて、「おもしゃがってる」感覚が充満していたことがいい。その結果として、「突き抜け」ていた。昨年2月の「めざせ100万円!南陽若者コンペティション」にはなかった「突き抜け」感をこの日は感じました。》https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-11-20
《井筒俊彦著『イスラーム哲学の原像』について。「神秘主義」のその突き抜けた先を見せてくれている。》https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-02-17
《「今の教育制度では、日本から突き抜けた天才は出てきにくくなっている。」(堺のおっさん)」》https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-05-06
・
* * * * *
・
もうひとつ、《今回のコロナ騒ぎで世の中の人の意識がどう変化したか》。今年4月の自殺者数、昨年より20%減とのこと。さもありなん。ひとりで苦しい思いをするのは辛いが、みんなで苦しい思いをするのはそれはそれでありがたい体験。《>コロナ禍ほどの事態が 起きてようやく自分の不遇を環境のせいにでき、肩の荷を下ろせる》→《相当数の人が「実は今まで自分で自分の首を絞めていただけだったんだ」ということに気が付くきっかけになったのは間違いないと思う。》* * * * *
269 名前:mespesado 2020/05/22 (Fri) 20:21:55
>>266 >>268
記憶していたサイトの内容に近いことが書いてある別のサイトを見つけました↓
日本語の起源を旧石器時代に探る
https://www.culturebeanz.com/entry/2020/02/12/003432/
記憶しているサイトはもっと個人の独自研究みたいなサイトで、しかし上にリンクを貼ったサイトと同じような世界地図が貼ってあって、似たような内容の議論をしてました。ご参考までに。
>>266 >>268
記憶していたサイトの内容に近いことが書いてある別のサイトを見つけました↓
日本語の起源を旧石器時代に探る
https://www.culturebeanz.com/entry/2020/02/12/003432/
記憶しているサイトはもっと個人の独自研究みたいなサイトで、しかし上にリンクを貼ったサイトと同じような世界地図が貼ってあって、似たような内容の議論をしてました。ご参考までに。
270 名前:奥田 正行 2020/05/23 (Sat) 08:42:33
5月22日、アルゼンチンは、当日が最終期限の外国通貨建て国債の利払約5億ドル
を実行せず史上9回目デフォルトとのことです。関連記事を紹介します。
アルゼンチン、9回目のデフォルト…債務交渉は継続
読売 2020.05.23 07:01
https://www.yomiuri.co.jp/world/20200523-OYT1T50131/
>【リオデジャネイロ=淵上隆悠】南米アルゼンチンの地元紙クラリンなどによると、
>アルゼンチンは22日、この日が最終期限だった外国通貨建て国債の利払い約5億ドル
>(約538億円)を実行せず、史上9回目の債務不履行(デフォルト)に陥った。
> もっとも、欧米の債権者団とは、総額662億ドルに上る債務の再編交渉が続いて
>おり、現段階では、国際金融市場への影響は限定的とみられる。
5月22日、アルゼンチンは、当日が最終期限の外国通貨建て国債の利払約5億ドル
を実行せず史上9回目デフォルトとのことです。関連記事を紹介します。
アルゼンチン、9回目のデフォルト…債務交渉は継続
読売 2020.05.23 07:01
https://www.yomiuri.co.jp/world/20200523-OYT1T50131/
>【リオデジャネイロ=淵上隆悠】南米アルゼンチンの地元紙クラリンなどによると、
>アルゼンチンは22日、この日が最終期限だった外国通貨建て国債の利払い約5億ドル
>(約538億円)を実行せず、史上9回目の債務不履行(デフォルト)に陥った。
> もっとも、欧米の債権者団とは、総額662億ドルに上る債務の再編交渉が続いて
>おり、現段階では、国際金融市場への影響は限定的とみられる。
271 名前:mespesado 2020/05/23 (Sat) 10:34:25
多くの一般人は、貨幣の違いを、同じものの換算率が違うだけのもの、例えば同じ物理量である「モノの長さ」の単位としてのメートルとインチの違い、程度のものにしか認識していない。
だから、ヨーロッパでも、多くの国がそれぞれ独自の通貨を使っているのは為替の換算率が沢山あってややこしいから、換算が必要なくなるように、単位を統一しよう!くらいの安易な気持ちで通貨統合に賛成したんだと思う。
今の日本でもほとんどの人はそうだろうから、「アルゼンチンが財政破綻したぞ!日本だっていつそいうなるかわからないぞ~」と脅して「コロナ増税」の「必要性」に結び付けようとする財務省一族とその御用学者たちと、そんなインチキ・プロパガンダに騙される庶民の姿が目に浮かぶ。「あのね、外貨建ての借金と自国通貨での借金はぜ・ん・ぜ・ん意味が違うんだよ」といっくら口を酸っぱくして説明しても、多くの人は「ハァ~?」てなもん。
通貨の違いというのが、単なる「換算率の違い」なんかではなく、「通貨発行主権」という、国力(供給力)と自国通貨を結びつける経済で最も重大な任務を持っている、という一番大事な事実に気付かずに…。
273 名前:mespesado 2020/05/23 (Sat) 16:27:58
https://twitter.com/i/status/1258430933394288647
↑中野剛志さんって、経済論や貨幣論だけじゃなくて、「言語論」についてもすごい見識を持っているのに感心します。
ところで、はぐらめいさんのサイトの最新のエントリー↓
https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-05-23
の増田嗣郎という人のサイトからの引用部分がすごい。
発音の物理的性質が言霊に密接に結びついているという話。
日本語に擬音語だけじゃなく、擬態語という不思議な単語が多いのも、日本語がそういう発音にかかわる物理的な性質に敏感だからなんでしょうね。
~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
ところで日本語は情緒を表現するのに得意だが、論理を表現するのは苦手だ、なんてよく言われるけれど、前者はともかく、後者は本当ですかね?
前にもどこかのスレッドに書いたけど、日本語の方が論理的なところがあるという話の一例として、受動態の話があって、
(日)私は彼に本を与えた。
(英)I gave him a book.
という「能動態」の文があって、目的語の「本」を主語にした受動態を作ることは両言語でできる。これはまあ、アタリマエ↓
(日)本が彼に与えられた。
(英)A book was given to him.
また、「彼」を主語にした受動態を作ることも両言語共にできる:
(日)彼は本を与えられた。
(英)He was given a book.
一方、次のような能動態の文を考える↓
(日)泥棒が私から財布を盗んだ。
(英)A thief stole a wallet from me.
これを目的語である「サイフ」を主語にした受動態は、当然ながら両言語
ともできる。これもまあ、アタリマエ↓
(日)財布が私から盗まれた。
(英)A wallet was stolen from me.
ところが、「私」を主語にした受動態は、日本語はできるけれども英語ではできない↓
(日)私は財布を盗まれた。
×(英)I was stolen a wallet
英語で同じ内容を「私」を主語にして言いたければ、受動態ではなく
〇(英)I had a wallet stolen.
みたいに言わなくちゃいけない。
で、日英どっちの方が論理的か?
私が学校で習ったときは、前者の「本」の例では「本」も「彼」も「目的語」だから英語ではどちらも主語にした受動体ができる。でも、後者の「サイフ」の例だと「サイフ」は目的語だが、「私」は英語では「from」という前置詞が付いていることからわかるように、目的語ではないから、それを主語にした受動態ができないのはアタリマエで、これはそんな目的語でもないモノを主語にした受動態ができる日本語の方が非論理的である、というものだった。
で、そのときは「フムフム。そうだな」と納得していたんだけれど、それって完全に詐欺ですね。
なぜかというと、最初の例の英文である「I gave him a book.」の him
って英文法では「第二目的語」とか言うけれど、目的語に第一とか第二とかある方が変で、そもそも英語の名詞には、他の言語(例えばドイツ語やロシア語)のような格変化が無く、そもそも「格」でいうなら、本来の目的語である「(第一)目的語」は、格変化を持つ言語では「対格」とよんでいる。本来の受動態というのは、このお「対格」を主語にした文のことを言うはずだったのだ。
これに対し、「第二目的語」とかいってる him の方は、格を持つ言語では「与格」といって、何かをする「与え先」、つまり「主語 → 与格」という意味の格で、日本語では「~に」という格助詞で表す。だから英語でも、同じ文を「I gave a book to him.」とも言い、この場合は「与格」であることを示す前置詞 to がちゃんと付いている。だから本来は、この him は与格なのに前置詞を省略して第一目的語の手前に持ってきて、あたかも目的語であるかのように「装っている」だけだ、とさえ言えるのだ。
これに対して後者の文「A thief stole a wallet from me.」の me は、格変化を持つ言語では「奪格」といい、「与格」とは反対に、何かをするときの「奪ってくる先」、つまり「主語 ← 奪格」という構図で、丁度与格と奪格は、矢印の向きが逆なだけで、そういう意味では「同階級」なのだ。
ということは、与格を主語にした受動態が可能なら、身分として「同階級」な奪格を主語にした受動態も可能な日本語の方がよっぽど論理的だ、とも言えるのだ。つまり、「与格」のときだけ語順を変えて「第二目的語」などと名付けて目的語扱いできるくせに、矢印の向きが反対なだけの「奪格」のときはそういうことができない、という英語って論理的にどうなのよ、とも言えるわけだ。
あ、それからもう一つ。
日本語では動詞文の否定文が形容詞文になってしまうというのが非論理的だ、という話。
英語だと「A dog runs.」もその否定「A dog does'nt run.」もどちらも動詞文(というか、英語には形容詞を述語にする形容詞文というのはそもそも存在しないが)だ。
ところが日本語の「犬が走る」は「走る」という動詞が述語なのに、その否定文「犬が走らない」は「ない」という形容詞(日本語文法ではこの「ない」は形容詞扱いしないようだが、終止形が「い」で終わるのは動詞でなく形容詞の特徴)が述語になっていて、同じ構造の文の肯定か否定かの違いだけしかないのに、述語の品詞が変わってしまうのが非論理的だ、というのである。
でも、これも「犬が走っているなら、犬は走るという動作を行っているから動詞文でよいが、犬が走ってないのなら、走るという「動作」を行ってないわけだから、動詞で表したらかえっておかしく、何もしていない、という「状態」を表すには形容詞文である方がふさわしい。だから日本語の方は、そういう観点で見れば実に論理的である」という説明を読んだことがあり、その発想には脱帽したものである。
↑…と、長々と、やや言語学チックなややこしい話をして申し訳なかったが、言語学のような生粋の学問の世界でも、いかに「西洋かぶれ」が蔓延しているかという話の一例だと思っていただければ幸いです。
275 名前:suyap 2020/05/23 (Sat) 19:59:43
>>273 mespesadoさん
>で、日英どっちの方が論理的か?
>私が学校で習ったときは、~(以下略)
典型的な?二ホンの学校英語チックな教師に習っておられたんですね。
そういえば、学校英語で能動態⇄受動態への変換、さんざんやらされましたっけ。
でもね、あのとき一生懸命に練習したあの書き換えが、まったく英語的で(日本語的でも)なかったって気づけたのは、ずっと後。ああなんて無駄な労力と時間を費やさせられてたんだと。
>(英)I gave him a book.
>(英)A book was given to him.
上記、単に能動態と受動態の違いのように見えますが、ニュアンスはかなり違うんです。だいたい英語ネイティブが自分の言語を操るとき、能動態か受動態かなんてまったく意識してないですし、その都度、自分の言いたいこと、書き表したいことにフィットする表現を使っているだけでしょう。
>言語学のような生粋の学問の世界でも、いかに「西洋かぶれ」が蔓延し
>ているかという話の一例だと思っていただければ幸いです。
学校英語の教師の英語が、実世界ではあまり役に立たない…ってのを、たまに現実に目撃します(みなさんがそうではありませんが)。そういう人に限って「自分は英語教師です」って宣言しちゃってるので、相手と会話になってなくても気安くお手伝いするわけにもいかず...(苦笑)。
277 名前:mespesado 2020/05/23 (Sat) 22:17:55
>>275
> >(英)I gave him a book.
> >(英)A book was given to him.
>
> 上記、単に能動態と受動態の違いのように見えますが、ニュアンスはか
> なり違うんです。
現実に英語で生活している人ならではの感覚でしょうね。そもそも能動態同士で単に語順を変えただけの
> I gave him a book
と
> I gave a book to him
のニュアンスも当然違うでしょうし。
それから語順を変えただけというなら
I have a wallet stolen.
と、その語順を変えただけの
I have stolen a wallet.
だと、ニュアンスどころか意味がまるっきり変わってしまって、前者だと、「私」は「被害者」だったのが、後者だと「加害者」になっちまうw
ところでここからはトリビアというか、この二つの文、実は、本来は文法的に同じことだったんですね。そもそも steal のような他動詞の過去分詞って、過去形の「受動態」の意味を持っているのに、「have + 過去分詞」にすると、突然これが「完了」の「能動態」の意味になる。これ、何でなのかなんて考えたことが無かったですけど、本来の語法では、この have はその本来の意味、つまり「持つ」という意味だった。つまり「I have stolen a wallet」という言い方は、もともと stolen という過去分詞は形容詞だから、その直後に来る a wallet を形容していて、この文を直訳するなら「私は盗まれたサイフを持つ」という意味だったんですね(冠詞 a の位置が変ですが、それは現在完了・過去完了の形が文法的に確立されて、本来の構造が忘れられたために生じた現象)。
つまり、「盗まれた」のは「サイフ」であり、その「盗まれたサイフ」を「私」が「持っている」、ということは「私が財布を盗んだ」という能動の意味になる、というわけです。
すると、「I have a wallet stolen」の方は何だ、というかもしれませんが、こちらは後からできた形で、これも直訳するなら「私は盗まれたサイフを持つ」になるんですが、そこが「ニュアンスの違い」で、「wallet」と
「stolen」の語順が逆なので、「私は財布が盗まれたこと(=経験)を持つ」という意味になり、これだと「私」は「被害者」ということになる、というわけですね。
(「スレ違い」っぽいのでこの話題はこのスレではこの辺で打ち止めにします。もし続けたくなったら、続きは「学問の部屋」でやりたいと思います)。
278 名前:出世外人 2020/05/23 (Sat) 22:41:47
>>264 mespesadoさん
私も英語でそれなりに苦労している典型的な日本人なのですが、ひと言(亀さん、ままりんさんなど専門家のおられる中で恥ずかしいですが)。
>実業や学問の世界でよく言われる「英語で書くだけじゃなくて英語で考えよ」という意見
「英語で考えよ」と一言でいうものの、実はこの言葉は非常に多面的な意味を含んでおり、ざっと列挙して、少なくとも以下の側面があると思います。
1)アングロ・サクソン的な個人主義、社会観(エマニュエル・トッドのいうところの「絶対的核家族」的な社会観)で考える
2)ピューリタン的な世界観、倫理観、時間観(終末論的世界観)で考える:これらについては、同じ英語圏でも、イギリスよりアメリカがより先鋭的・原理主義的
3)英語が深く受容したラテン語の分析的、系統的な思考で考える
4)英語が深く受容したギリシャ語の普遍性を希求する思考で考える
ですから「英語で考えよ」と言う人たちも、これらの「英語で考える」ということの多元性、深さを理解した上で言っているのかな・・・、というところがあります。
ただ、もし、こうした点をきちっと理解できたとなると、相手方(英語圏・グローバリズム)の手の内が分かるので、グローバル化≒アングロ・サクソン化の潮流に対して、先読みをしたり、対応策も立てやすくなると思います。
相手方は今一つ日本人・アジア人の深層意識が分かっていない中で、こちらが向こうの深層意識が分かるとなると、有利さも出てくるんじゃないでしょうか。
>>「ダジャレを言う外国人はいるけれど詩や文学まで日本語で書ける外国人はあまりいない」
流ちょうな日本語を話す外国人は少なくないですが、彼らの多くは「馴れ」で話し言葉の日本語を習得したものの、その深層にある和漢の古典を勉強していないから、読み書きができないのでしょう。
アーサー・ビナードさんという日本語で詩を書く外国人もいますが、こうした方は、きちんと和漢の古典も学んでいるのでリテラシーとしての日本が身についているのではと。
これは日本人にもいえることで、小学校での英語教育が開始するそうですが、これはせいぜい、英語の日常会話に抵抗感がなくなる程度の効果しかないのではと思います。
ビジネスや学術で使うリテラシー、書き言葉としての英語は、実質的にラテン語、プラス若干のギリシャ語でできているように思います(英文法の上に、ラテン語の語彙を載せて使っている。日本語が漢字を取り入れているのとよく似た構造)。ですから、ラテン語の素養がない限り、語彙力、語感も養われないし、日本人は到底、英語で読み書きできるレベルには到達できないのではと思います。
その面で、英語だけを勉強するというようり、むしろ大学あたりで、ラテン語を必修化したりすると、リテラシーとしての英語力は格段に高まるのではないかと思います。
日本人はそもそも和漢とインド(仏教)の素養を持っているわけですが、これらに加えて西洋社会の基層をなすラテン古典の素養を備えた上で英語を使うとなると、まさにFormidable(恐るべき、侮りがたい)な東洋人ということになってくるんじゃないでしょうか。
279 名前:出世外人 2020/05/23 (Sat) 23:14:17
>>277 >>278
278は誤爆、大変失礼しました! 続きは「学問の部屋」でしたね。(^^;
280 名前:mespesado 2020/05/24 (Sun) 01:00:29
>>279
いえいえ、出世外人さんの今回の投稿はここでもいいと思います。英語教育というか、ビジネスの場における英語の扱いという今後の日本の外国語や母国語にどう向き合うかという話ですので。
これに対し、私の >>277 の投稿は、英文法というか英語史の学術的というかオタク系の話なので、そういうのをメインスレで続けるのは場違いだと思っただけです。どうぞお気になさらずに。
281 名前:mespesado 2020/05/24 (Sun) 08:35:43
旅くま 勉強垢
> 日本、むしろ世界の現状を的確に指摘
> 「ルールに従い続ける者が敗ける」
> ルールの中で工夫するのが日本、ルールをひっくり返すのが世界
> 柔道がJUDOに変えられたのが良い例
https://twitter.com/kumaj_kravmaga/status/1263227832156602368
↑過去のTV番組らしいのだが、旅くまさんのいうように「世界の現状を的確に指摘」、つまりDSたちの本性そのものという感じ。最初、よくこんな番組が放送できたものだな、と思ったが、どうやら、2005年ごろに放送された「女王の教室」という番組らしい↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E7%8E%8B%E3%81%AE%E6%95%99%E5%AE%A4
↑この解説によると、生徒が一見とてつもなく厳しいことを言い、無茶を押し付ける「鬼教師」を乗り越えることで「出来の悪い生徒たち」の成長を促す、というテーマの作品らしいが、だとすると、何だか訴える方向が違うんじゃないかと思えてくる。
つまり、この番組(というか原作者)の思想として「世の中が厳しい(世知辛い)」ことは「素直」に「受け入れ」て、世の中に「ついていけなく」て「ふてくされている」子供たちを「将来への恐怖感」で「煽っ」て「努力する」ように「仕向ける」ことを「善いこと」だと考えている、という…。
昨今の「技術進歩」のおかげで、せっかく「供給過多」になった「幸福」なはずの日本で「庶民」の「貨幣に対する認識」が間違っているばっかりに自ら「貨幣不足」の状態を「当然のこと」と「信じ」て「緊縮財政」をまっしぐらに突き進んだ結果、「しなくてもいい苦労」を「アタリマエ」のことだと勘違いして「苦しんでいる」姿。上の作品は、劇中で、せっかく「ルールってもんは頭のいいヤツが自分に都合のいいように作ってるだけなんだよ」と、あたかも悪賢い財務官僚を風刺したものかと思わんばかりのことを教師に発言させていながら、実は、そのルールって、一般庶民が「正しい」と勘違いしている「誤った常識」に支えられているからこそ、「頭のいいヤツ」がその庶民感情に便乗している、っていう肝心の本質が視聴者に伝わっていないと思うし、原作者自体がそういう所まで気付いているのかも疑わしい。
敵は外にあるのではなく、実は「自分で自分を勝手に縛っている自分の心」という「自分自身」の中にこそある、ということに気付くことこそが一番大切だと思う。今回のコロナ禍による自粛生活でどれだけの人がそういう「真理」に到達したであろうか。
527:mespesado :2020/05/21 (Thu) 22:10:03
「どうぶつの森」というゲームがあり、擬人化した動物たちが住む森でオカネを稼いで生活するというゲームなのだが、最近はだんだんリアルな世界に近づいてきていてオカネを稼ぐのが、より難しくなり、「世知辛く」なってきているらしい(私はゲームをやらないが、家族からの情報)。
どうもゲーム作者も「緊縮脳」に侵されているらしく、そもそもその森で誰がオカネ(円ではない独自通貨)を発行しているのかも定かでない(w)。ゲームの世界くらい、政府(というものがあるのか?もし無ければオカネが存在しているはずがないよね)がどうぶつの森の経済力、供給力に応じて貨幣の発行量を調整して景気を良くすることをすりゃぁいいのに、「貨幣を誰かが発行している」気配もないことからして、ゲーム作者自身が現代の不換貨幣のからくりを理解していないことは明らかだ。
誰か、貨幣を経済力に応じて自由に増減するようなゲームを作って流行らせないかなぁ…。
282 名前:mespesado 2020/05/24 (Sun) 09:19:09
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16580696/527/
↑別スレで「どうぶつの森」というゲームについて感想を述べたところだが、
こういう記事があった↓
どうぶつの森「楽しめる人・すぐ飽きる人」の差
https://toyokeizai.net/articles/-/350695
ちょっとタイトルに惹かれて読んでみたのだが、結論として書かれているのはこれ↓
> 最後に。あつ森【『あつまれ どうぶつの森』という最新版ゲームを指す
> ―引用者注】では、プレイヤーがキャラクターを動かそうとしなければ、
> ただただ何もないままに時間は過ぎていく。プレイヤーは何もしなくて
> もゲームオーバーになることはないし、島には朝が来て夜が来て、季節
> も移り変わっていくだけだ。
>
> 何もしないことを否定するつもりはないが、やはり自発的に何か行動し
> ようとしなければ、あつ森の一番楽しい部分は味わえないのではないか。
> だが素晴らしいことに、このゲームは常に「何かしよう」という仕組み
> があふれている。
ふ~ん。やっぱり、記事のタイトルが“楽し「める」人”とあったことから、やっぱりこのゲームを楽しめる方が「善く」て、楽しめない人というのは「他のゲームと違ってこのゲームは何もしなくてもゲームオーバーにならずにすむからといって楽して何もしないと、せっかくの楽しさを味わえない残念な人」だと言いたかったわけですな。
これもどうかと思う意見ですねぇ。
実は私もゲームをやらないわけじゃなくて、子供と付き合いで一緒にやったことはあるし、東京ゲームショウに子供と行って最新のゲームをプロみたいに器用に操る人たちの公開対抗戦を見に行ったこともあるけれど、それでも「ゲームが全然面白いと思わない人」の一人です、はい。
で、この動物の森も、家族は好きでハマっているけれど、そりゃ結構ふざけた要素もあって、そこはオモシロくて笑ったりするのだが、どうにも楽しくない。別にゲーム全般がつまらないんではなく、例えば将棋とか、例の高校生棋士の藤井七段の将棋は見ていて実に面白いと思うのだが、どーもTVゲーム(という言い方は古いのかな。今じゃ単にゲームといえばコンピューターゲームを指すもんね)というのは、結局はゲーム制作者の意図を超えることができず、「ゲーム制作者の手のひらの中」で踊らされているだけのようにしか思えなくて、全然楽しくないんですよね。
だから、この記事の人も「ゲームをやるのはアタリマエのこと」だと思って、そのゲーマーの中で「楽しめる」人と「残念な人」を仕分けしているだけのような気がするわけです。これこそが、>>281 で書いたような、「与えられたルール」は初めから「受け入れ」て、そのルールの中でどう頑張るか、というのが好きな人がいかに多いのか、ということを如実に表していると思うわけです。かといって、「ルール」そのものにイチャモンを付ける人というのもいるが、これは多分に動機として「ゲームが上手にできないものだから、技量が不足している自分を責める代わりにゲーム自体に逆恨みしている」だけで、現実世界では、まさに「サヨク」がこういう人たちなんですよね。私はこのいずれの立場にも違和感があって、私なら「どうしてこういうルールになっているんだろう。このルールを採用している必然性って何なんだろう?」みたいなところに関心が行って、そこを究明したくなるんですよね。だから、ゲームに嵌るよりは、どういうゲームが流行るのか、とか、もし正しい貨幣理論に則った理想的な「どうぶつの森」を作るとしたらどういうゲームになるのかな、とか考える方が楽しいと思うんですよね。このゲームみたいに、いきなり最初に「たぬきち」社長の思惑にまんまと乗って、最初から借金を背負わされてゲームを開始する、という、あまりに日本人の「誤解した貨幣論を当然のことと感じてしまっている現実」をそのまんまルールに盛り込んだようなゲームなんか、楽しむどころか考えただけでハラが立ちますよ。まあ、こういう人の方が、よほどの変わり者なんでしょうけどねw
「どうぶつの森」というゲームがあり、擬人化した動物たちが住む森でオカネを稼いで生活するというゲームなのだが、最近はだんだんリアルな世界に近づいてきていてオカネを稼ぐのが、より難しくなり、「世知辛く」なってきているらしい(私はゲームをやらないが、家族からの情報)。
どうもゲーム作者も「緊縮脳」に侵されているらしく、そもそもその森で誰がオカネ(円ではない独自通貨)を発行しているのかも定かでない(w)。ゲームの世界くらい、政府(というものがあるのか?もし無ければオカネが存在しているはずがないよね)がどうぶつの森の経済力、供給力に応じて貨幣の発行量を調整して景気を良くすることをすりゃぁいいのに、「貨幣を誰かが発行している」気配もないことからして、ゲーム作者自身が現代の不換貨幣のからくりを理解していないことは明らかだ。
誰か、貨幣を経済力に応じて自由に増減するようなゲームを作って流行らせないかなぁ…。
282 名前:mespesado 2020/05/24 (Sun) 09:19:09
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16580696/527/
↑別スレで「どうぶつの森」というゲームについて感想を述べたところだが、
こういう記事があった↓
どうぶつの森「楽しめる人・すぐ飽きる人」の差
https://toyokeizai.net/articles/-/350695
ちょっとタイトルに惹かれて読んでみたのだが、結論として書かれているのはこれ↓
> 最後に。あつ森【『あつまれ どうぶつの森』という最新版ゲームを指す
> ―引用者注】では、プレイヤーがキャラクターを動かそうとしなければ、
> ただただ何もないままに時間は過ぎていく。プレイヤーは何もしなくて
> もゲームオーバーになることはないし、島には朝が来て夜が来て、季節
> も移り変わっていくだけだ。
>
> 何もしないことを否定するつもりはないが、やはり自発的に何か行動し
> ようとしなければ、あつ森の一番楽しい部分は味わえないのではないか。
> だが素晴らしいことに、このゲームは常に「何かしよう」という仕組み
> があふれている。
ふ~ん。やっぱり、記事のタイトルが“楽し「める」人”とあったことから、やっぱりこのゲームを楽しめる方が「善く」て、楽しめない人というのは「他のゲームと違ってこのゲームは何もしなくてもゲームオーバーにならずにすむからといって楽して何もしないと、せっかくの楽しさを味わえない残念な人」だと言いたかったわけですな。
これもどうかと思う意見ですねぇ。
実は私もゲームをやらないわけじゃなくて、子供と付き合いで一緒にやったことはあるし、東京ゲームショウに子供と行って最新のゲームをプロみたいに器用に操る人たちの公開対抗戦を見に行ったこともあるけれど、それでも「ゲームが全然面白いと思わない人」の一人です、はい。
で、この動物の森も、家族は好きでハマっているけれど、そりゃ結構ふざけた要素もあって、そこはオモシロくて笑ったりするのだが、どうにも楽しくない。別にゲーム全般がつまらないんではなく、例えば将棋とか、例の高校生棋士の藤井七段の将棋は見ていて実に面白いと思うのだが、どーもTVゲーム(という言い方は古いのかな。今じゃ単にゲームといえばコンピューターゲームを指すもんね)というのは、結局はゲーム制作者の意図を超えることができず、「ゲーム制作者の手のひらの中」で踊らされているだけのようにしか思えなくて、全然楽しくないんですよね。
だから、この記事の人も「ゲームをやるのはアタリマエのこと」だと思って、そのゲーマーの中で「楽しめる」人と「残念な人」を仕分けしているだけのような気がするわけです。これこそが、>>281 で書いたような、「与えられたルール」は初めから「受け入れ」て、そのルールの中でどう頑張るか、というのが好きな人がいかに多いのか、ということを如実に表していると思うわけです。かといって、「ルール」そのものにイチャモンを付ける人というのもいるが、これは多分に動機として「ゲームが上手にできないものだから、技量が不足している自分を責める代わりにゲーム自体に逆恨みしている」だけで、現実世界では、まさに「サヨク」がこういう人たちなんですよね。私はこのいずれの立場にも違和感があって、私なら「どうしてこういうルールになっているんだろう。このルールを採用している必然性って何なんだろう?」みたいなところに関心が行って、そこを究明したくなるんですよね。だから、ゲームに嵌るよりは、どういうゲームが流行るのか、とか、もし正しい貨幣理論に則った理想的な「どうぶつの森」を作るとしたらどういうゲームになるのかな、とか考える方が楽しいと思うんですよね。このゲームみたいに、いきなり最初に「たぬきち」社長の思惑にまんまと乗って、最初から借金を背負わされてゲームを開始する、という、あまりに日本人の「誤解した貨幣論を当然のことと感じてしまっている現実」をそのまんまルールに盛り込んだようなゲームなんか、楽しむどころか考えただけでハラが立ちますよ。まあ、こういう人の方が、よほどの変わり者なんでしょうけどねw
283 名前:mespesado 2020/05/24 (Sun) 10:39:25
今回のコロナ騒ぎで世の中の人の意識がどう変化したかをアンケートに基づいて解説した記事を2つ↓
150人調査で見る「コロナ下の日本人」驚く変化
https://toyokeizai.net/articles/-/347658
自粛生活に「幸福を感じた人」が口々に語る理由
https://toyokeizai.net/articles/-/350993
人々の間に起こった様々な意外な変化を紹介しているのだが、中でも興味を引いたのがコレ↓
> コロナによって、それまで夢中になっていたものに途端に興味を失った
> 人が少なからずいるというのは不思議な現象だ。ソシャゲやアルコール、
> そして恋人など、依存性の高いものを必要としなくなったという人が複
> 数いるのも興味深い。日常が急に様変わりしたことによって、現実から
> の逃避先を必要としなくなったということなのだろうか。
やれ「コロナ倒産」だぁ、やれ「コロナ離婚」だぁとネガティブな影響ばかりが語られるが、意外にも逆に人生が好転している例を挙げているのが興味深い。もちろん、アンケートに答える方は自主的だから、本当に深刻な目に逢っている人はそもそもアンケートに答えないからバイアスがかかっていることは差し引いて見る必要があるが、
> 5月12日の厚労省の発表によると、今年4月の自殺者数は前年度よりおよ
> そ20%も少なくなったそうだ。【中略】が、普段の社会では大人たるも
> の、いかなる状況にあろうと自力で対処するべき、という過剰な自己責
> 任論がはびこっている。決して少なくない人が、コロナ禍ほどの事態が
> 起きてようやく自分の不遇を環境のせいにでき、肩の荷を下ろせるとい
> うこの現実を、私たちはどう受け止めるべきだろう。
といった客観的なデータを考慮すると、相当数の人が「実は今まで自分で自分の首を絞めていただけだったんだ」ということに気が付くきっかけになったのは間違いないと思う。著者は同じ紫原明子さんという人だが、最後に
> コロナという世界的な災禍の中で、一人ひとりのささやかな暮らしに生
> じる重大な変化は、家庭の内側に閉ざされ、外から簡単には見えにくく
> なっている。けれどもそうやって見落とされそうになるものの中に、人
> 間の暮らしや生き方の本質に通じるものが少なからず潜んでいると筆者
> は考える。事態が続く限り、継続してこの調査を行っていきたい。
と結んでいるから、続報にも期待したい。
284 名前:mespesado 2020/05/24 (Sun) 11:11:33
>>278 の出世外人さんの以下の部分↓
> ただ、もし、こうした点をきちっと理解できたとなると、相手方(英語
> 圏・グローバリズム)の手の内が分かるので、グローバル化≒アングロ
> ・サクソン化の潮流に対して、先読みをしたり、対応策も立てやすくな
> ると思います。
>
> 相手方は今一つ日本人・アジア人の深層意識が分かっていない中で、こ
> ちらが向こうの深層意識が分かるとなると、有利さも出てくるんじゃな
> いでしょうか。
のような発想は、まさに「逆転の発想」ですね。今までの西洋かぶれした日本人は、日本語が「非論理的」で「漢字とひらがな」の混じった複雑な言語で、と自虐的な目で自分たちを卑下していて、そのコンプレックスを胡麻化すために、日本語を腐して、その裏返しが「英語崇拝」だったと思うのです。そういう意味で出世外人さんの逆転の発想は、そんな卑屈になった日本人に「希望」を与える見方じゃないでしょうか。
ところで、>>264 では、印欧語族という言語の「新参者」が日本語の属す古層言語を世界中で次々に駆逐していった、ということを書きましたが、日本語のような「古層言語」が、もし「言霊」を感じることができるほど「優れた」げんごなのだとしたら、なぜその「優れた言語」の方が駆逐されてしまったのだろうか、というところが謎になりますね。
これはまた私の仮説になりますが、西洋人、というか、アーリア人というのは、もともと自分の生まれ育った土地に執着せず、外に進出するのが好きな民族であり、他地域に住む人を次々に支配していくことで勢力を伸ばしたと考えられています。ということは、「新参者」の言語は、この「人を支配する」能力に長けているのではないか、ということが考えられます。どういうことかというと、「言霊」の力が強い言語は、意識しなくても、その言霊の力によって、民族の結束意識が強い。だから外から異民族が入って分断しようとしても、結束が固くて分断しにくい。ところが「言霊」の力が弱い新参言語は、こういった「無意識の一体感」を使用者にあまり与えないので、外からの分断に弱く、簡単に支配しやすい。また、新参言語が「論理的だ」とよく言われるのは、「言霊」のような「民族の無意識の共通意識」を持たない(というか、本来持っていたのを破壊された、と言った方が適切か)人たちを支配するには、要するに論理的に「1から」説明しないと相手に理解してもらえないからこそ、「論理性」が前面に出た言語になっているのではないでしょうかね。そう考えると、新参言語が「論理性」を特徴としていて、本来「言霊」を持った「高い精神性を持った」はずの「古層言語」を駆逐したカラクリも理解できるような気がするのです。そして、技術の進歩のおかげで「戦争」というものが「被害が甚大になり過ぎる」時代になった結果、人類は対立の解決に「戦争」という手段を使えなくなり、その結果「支配・被支配」という構造も取れなくなった結果、最後の頼りになるのは「人類が共通に理解できる言霊」というものにすべての人類が気づくこと、そしてその先導役として、最初から「言霊」を持った言語である日本語を使っている日本人こそが、その役割を果たすのに最もふさわしい、ということではないかと思うのです。ただし、そのためには、日本人が持つ「ルールはそのまま問題意識も持たずに受け入れてしまって、その中で頑張る」という意識も見直す必要があるような気がします。でないと、「自分」が根本を変えることなしに「世界」を変えることなんてできっこありませんから。
今回のコロナ騒ぎで世の中の人の意識がどう変化したかをアンケートに基づいて解説した記事を2つ↓
150人調査で見る「コロナ下の日本人」驚く変化
https://toyokeizai.net/articles/-/347658
自粛生活に「幸福を感じた人」が口々に語る理由
https://toyokeizai.net/articles/-/350993
人々の間に起こった様々な意外な変化を紹介しているのだが、中でも興味を引いたのがコレ↓
> コロナによって、それまで夢中になっていたものに途端に興味を失った
> 人が少なからずいるというのは不思議な現象だ。ソシャゲやアルコール、
> そして恋人など、依存性の高いものを必要としなくなったという人が複
> 数いるのも興味深い。日常が急に様変わりしたことによって、現実から
> の逃避先を必要としなくなったということなのだろうか。
やれ「コロナ倒産」だぁ、やれ「コロナ離婚」だぁとネガティブな影響ばかりが語られるが、意外にも逆に人生が好転している例を挙げているのが興味深い。もちろん、アンケートに答える方は自主的だから、本当に深刻な目に逢っている人はそもそもアンケートに答えないからバイアスがかかっていることは差し引いて見る必要があるが、
> 5月12日の厚労省の発表によると、今年4月の自殺者数は前年度よりおよ
> そ20%も少なくなったそうだ。【中略】が、普段の社会では大人たるも
> の、いかなる状況にあろうと自力で対処するべき、という過剰な自己責
> 任論がはびこっている。決して少なくない人が、コロナ禍ほどの事態が
> 起きてようやく自分の不遇を環境のせいにでき、肩の荷を下ろせるとい
> うこの現実を、私たちはどう受け止めるべきだろう。
といった客観的なデータを考慮すると、相当数の人が「実は今まで自分で自分の首を絞めていただけだったんだ」ということに気が付くきっかけになったのは間違いないと思う。著者は同じ紫原明子さんという人だが、最後に
> コロナという世界的な災禍の中で、一人ひとりのささやかな暮らしに生
> じる重大な変化は、家庭の内側に閉ざされ、外から簡単には見えにくく
> なっている。けれどもそうやって見落とされそうになるものの中に、人
> 間の暮らしや生き方の本質に通じるものが少なからず潜んでいると筆者
> は考える。事態が続く限り、継続してこの調査を行っていきたい。
と結んでいるから、続報にも期待したい。
284 名前:mespesado 2020/05/24 (Sun) 11:11:33
>>278 の出世外人さんの以下の部分↓
> ただ、もし、こうした点をきちっと理解できたとなると、相手方(英語
> 圏・グローバリズム)の手の内が分かるので、グローバル化≒アングロ
> ・サクソン化の潮流に対して、先読みをしたり、対応策も立てやすくな
> ると思います。
>
> 相手方は今一つ日本人・アジア人の深層意識が分かっていない中で、こ
> ちらが向こうの深層意識が分かるとなると、有利さも出てくるんじゃな
> いでしょうか。
のような発想は、まさに「逆転の発想」ですね。今までの西洋かぶれした日本人は、日本語が「非論理的」で「漢字とひらがな」の混じった複雑な言語で、と自虐的な目で自分たちを卑下していて、そのコンプレックスを胡麻化すために、日本語を腐して、その裏返しが「英語崇拝」だったと思うのです。そういう意味で出世外人さんの逆転の発想は、そんな卑屈になった日本人に「希望」を与える見方じゃないでしょうか。
ところで、>>264 では、印欧語族という言語の「新参者」が日本語の属す古層言語を世界中で次々に駆逐していった、ということを書きましたが、日本語のような「古層言語」が、もし「言霊」を感じることができるほど「優れた」げんごなのだとしたら、なぜその「優れた言語」の方が駆逐されてしまったのだろうか、というところが謎になりますね。
これはまた私の仮説になりますが、西洋人、というか、アーリア人というのは、もともと自分の生まれ育った土地に執着せず、外に進出するのが好きな民族であり、他地域に住む人を次々に支配していくことで勢力を伸ばしたと考えられています。ということは、「新参者」の言語は、この「人を支配する」能力に長けているのではないか、ということが考えられます。どういうことかというと、「言霊」の力が強い言語は、意識しなくても、その言霊の力によって、民族の結束意識が強い。だから外から異民族が入って分断しようとしても、結束が固くて分断しにくい。ところが「言霊」の力が弱い新参言語は、こういった「無意識の一体感」を使用者にあまり与えないので、外からの分断に弱く、簡単に支配しやすい。また、新参言語が「論理的だ」とよく言われるのは、「言霊」のような「民族の無意識の共通意識」を持たない(というか、本来持っていたのを破壊された、と言った方が適切か)人たちを支配するには、要するに論理的に「1から」説明しないと相手に理解してもらえないからこそ、「論理性」が前面に出た言語になっているのではないでしょうかね。そう考えると、新参言語が「論理性」を特徴としていて、本来「言霊」を持った「高い精神性を持った」はずの「古層言語」を駆逐したカラクリも理解できるような気がするのです。そして、技術の進歩のおかげで「戦争」というものが「被害が甚大になり過ぎる」時代になった結果、人類は対立の解決に「戦争」という手段を使えなくなり、その結果「支配・被支配」という構造も取れなくなった結果、最後の頼りになるのは「人類が共通に理解できる言霊」というものにすべての人類が気づくこと、そしてその先導役として、最初から「言霊」を持った言語である日本語を使っている日本人こそが、その役割を果たすのに最もふさわしい、ということではないかと思うのです。ただし、そのためには、日本人が持つ「ルールはそのまま問題意識も持たずに受け入れてしまって、その中で頑張る」という意識も見直す必要があるような気がします。でないと、「自分」が根本を変えることなしに「世界」を変えることなんてできっこありませんから。
コメント 0