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「置賜獅子の会」復活へ! [獅子の会]

「真実を求めて」.jpg市議として4年間のいちばんの課題は「若い人を育てること」と明言していました。それを聞いたある人から「塾のようなものを考えたら」とのアドバイスを受け、あれこれ考えているうちに「獅子の会」の復活に思い至りました。昔からの仲間も「いい!やろう」とすぐ同調してくれました。
われわれの「獅子の会」は「猫の子会」と揶揄されるようにもなっていました。「獅子の会」の目標は、それぞれの生き方を考え実行することと並行して、赤字経営に苦しむ公立病院にとってかわる徳洲会の病院を置賜に建てることでした。しかし、庄内、最上、村山には徳洲会病院ができたのに置賜には徳洲会関連施設は何もできないままに今に至っています。(実は現在の置賜総合病院は、当初建設費負担割合が 県:地元=5:5 だったのが、われわれの動きを察した県が 8:2 に変更したことで一挙に進んだのでした。当時徳田理事長は「できるだけ立派な病院を建ててもらえ。いずれわれわれが見ることになる。」と言っていたものでした。日本中の公立病院が経営に四苦八苦の時代でした。)
獅子の会全国大会.jpgさて、「獅子の会」でがんばっていた当時30代のわれわれも今や70代、亡くなったメンバーもいます。このまま「猫の子会」でフェードアウトというのもでかさない(カッコ悪い)。こういう時代だからこそあの頃の意気込みを呼び醒さねばならないのではないか。そしてそれを若い世代につなげたい。そこで思い立ったのが「トラオ魂」を蘇らせることでした。徳田さんの病状(ALS)はさらに進行し、こちらの意思を伝えることはできても、徳田さんの意思を知る手立てはもう何もなくなっているそうです。医療法人徳洲会も、8年前の騒動以来徳田ファミリーとはすっかり縁が切れ、今や2万人以上のスタッフを抱える大組織として堅実な歩みを進めています。われわれが直にふれた「トラオ魂」を呼び戻す手立てはもうないのか。そして思いついたのが、徳田さんについていちばん知るNさんとIさんに「徳田虎雄」を語っていただくことでした。それを「置賜獅子の会」復活のスタートにしたい。お二人の快諾を得ることができました。しかし、会場の手配をしようというところで、コロナのせいで、人集めは思いとどまらざるを得なくなってしまいました。お二人には「必ず実現するから」と伝えています。そして、徳田さんには、必ず「置賜獅子の会復活」を伝えたい、そう思っています。
学校法人南陽学園の理事長として15年間書きためた文章を冊子にまとめようとしています。若い人につなげる「獅子の会」を思いつつ「あとがき」として書いたのが以下の文章です。mespesadoさんのいわれる「価値観の相転移」とも関わります。
*   *   *   *   *
 今から40年前、徳田虎雄という人に出会いました。昭和56(1981)年のことです。徳田さんは奄美徳之島の貧しい農家に生まれ、夜中に医者に診てもらえなかったばかりに弟を亡くした辛い経験から医者を志し、「日本の医療を変える!」と日本中に24時間診療の病院を当時すでに9つも建てていた、医療法人徳洲会の理事長でした。徳田先生は、日本の若者に奮起を促がすべく全国を講演行脚、「獅子の会」という会をつくってまわっていたのです。その行動に共鳴した当時20代から30代だったわれわれが集って、「置賜獅子の会」が生まれました。
目標はホラでいい.jpg 「獅子の会」の柱は、「突き愛(つきあい)」と「実力の100倍の目標設定」でした。
 お互いの弱みを遠慮会釈なく突っつき合うのが「 突き愛」です。酒を酌み交わしながらの「 突き愛」は喧嘩同然といってもいいものでした。それがのちのちの糧(かて)になっていたことが今になってよくわかります。
 徳田さんは平成2(1990)年に衆議院議員になりました。その翌年、「南陽で講演したい」との申し出に応えて準備を進めました。その中で「会としての目標を定めよう」との話が持ち上がりました。われわれにとって実力100倍の目標設定は何か。その議論から生まれたのが「21世紀、置賜は世界の中心になる!」でした。平成3(1991)年4月29日、開校したばかりの南陽高校体育館で開催した講演会、そのテーマを「目醒めよ!置賜の地霊たち――21世紀は置賜から」としました。そのパンフレットには、「『世界の置賜』たらんとする根拠と徳田虎雄氏講演会の意味」と題しこう書いています。

  実に、思うことから、物事は始まる。
  そして徳田氏いわく、
  「思い込んだことは必ず実現する。」
  いまわれわれは、この真理を奉じつつ、壮大なる実験に挑戦してみたい。
  その実験とは、とことんわれわれがそう思い込むことによって、
  21世紀の置賜を、日本の中心、
  そしてさらには世界の中心にしてしまおうという実験である。 
                                 
 その年6月には「週刊置賜」創刊10周年記念企画として、この目標を広めるためのスライド「美(うま)し国 おいたま」を制作しました。こんな言葉が入っています。

  今私たちはとてつもなく大きな夢に捉えられています。
  その夢とは、21世紀の置賜を日本の中心、
  そしてさらに世界の中心にしてしまおうというとてつもない夢です。
  ・・・ただしそれは、20世紀を支配してきた感覚とは全くちがった、
  ややもすれば片脇に押し退けられ、あるいはまた、
  ようやく私たちの意識の中に顔を出しつつある21世紀的感覚によって、
      はじめて見つけることのできる可能性のはずです。
      置賜は、この21世紀的感覚によって世界の中心になるのです。 

 そして「21世紀的感覚の芽」を見出すべく、置賜にゆかりある何人かがとりあげられます。寺島求馬(明治の初め、成島八幡宮近くに住む学者)、上杉鷹山公、結城豊太郎、浜田広介、吉本隆明、井上ひさし、ますむらひろしの7人です。

  置賜にゆかりある方々を取り上げてみましたが、
  共通のイメージが浮かぶとすれば
  それは、心のやさしさ、人の善さであり、
  そして理想主義、高い精神性への強い志向です。・・・
  精神文化の高さを測る物差しは人の心の善意の度合いです。
  20世紀を支配してきた物欲文化、
  より多いモノとカネの追求、
  その根っこにあるのは、
  羨(うらや)み、ひがみ、やっかみ、そねみ、ねたみ、・・・
  それらをすべて善意で浄化した高い次元の世界、
  それが21世紀的世界。
  としたらそれこそまさに、心やさしく人のよい置賜人が
  心の底で芯から望んでいる世の中。
  時代は私たち置賜人の望む方向へ、
  まっしぐらにつき進んでいるとはいえないでしょうか。

 正直言って、「理解を得た」というには程遠かったと思います。平成4(1992)年から6年間、私が市議会議員を務めることになったのもこうした背景あってのことでしたが、正面切って言い出すには、まだためらいがありました。「わけのわがんねごど語ってんな」、そんな空気だったのです。
 以来30年、時折頭をもたげることはあっても、気持ちの底にくすぶったままでした。ところがここにきてそれが一転、にわかに現実味を帯びるように思えるようになったのです。22年ぶりに市議に返り咲いたのも、その思いがあってのことでした。 
 明治維新を「小維新」とすると、敗戦は「中維新」、そして今、新型コロナウイルスが引き金となって起ころうとしている世界的大変革は、まさに「大維新」といってもいいとも言われています。まだまだ嵐は吹き始めたばかりです。しかし、どれだけ先になるかわかりませんが、その嵐を切り抜けた後にはきっと、これまでとはちがうまったく新しい世界が拓けてくると思えるのです、それがどんな世界か。それこそが30年前思い描いた「21世紀的感覚の世界」です。

【追記 2021.1.2】

「光の子ども」たちへ.jpg昨年5月にできたA5判46pの冊子です。ご希望あればお送りします。→oshosina@omn.ne.jp

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