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雲井龍雄没後百五十年に向けて [雲井龍雄]

雲井龍雄 辞世 手拭_アートボード 1.jpg

(↑ 当店製「雲井龍雄 没後百五十年記念」手拭です。送料、振込手数料、税込1000円(後払い)でおわけします。ご希望の方、ご連絡ください。→takaoka@omn.ne.jp)

米沢英語研究懇話会発行の「ACORN」第33号が届いた。昨年3月の第101例会で語らせていただいたことをまとめた文章です。


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雲井龍雄没後百五十年に向けて

はじめに
 昨年(平成30年)発刊の「宮内よもやま歴史絵巻」を篠田州雄先生にお送りしたのがきっかけとなって、今年(平成31年)三月米沢英語研究懇話会第101回例会で話させていただく機会を得た。篠田先生は「宮内よもやま歴史絵巻」についてのおつもりだったのかもしれないが、せっかくのこの機会を、数年来頭にある「置賜発アジア主義」についてまとめあげる動機付けに利用させていただいた。おかげで米沢御堀端史跡保存会の「懐風」第44号に22ページ分の文章を寄稿することができた。その内容を話すべく、A3で6頁の資料を用意した。しかし与えられた時間はあっという間に過ぎて、不完全燃焼のまま時間切れ、きっちりテーマを定めてやらねばダメ、と強く反省することになった。その悔いを引きずっていたので、興譲館の同窓会で手塚会長に会った折、「文章でリベンジさせて」とお願いして書くのがこの文章です。
 「置賜発アジア主義」の内容をテーマで区切ると、以下の8項目になった。
 1. そもそもなぜ「置賜発アジア主義」なのか(「九州発」との対比で言うと、置賜発の方が「まっとうな」アジア主義)
 2. 上杉茂憲公漢詩「戊辰討庄先鋒細声駅述懐」、そして「戊辰雪冤」へ
 3. 雲井龍雄から曽根俊虎へ
 4. 宮島誠一郎、雲井龍雄、内村鑑三に共通する政体論(「民主主義」への懐疑)
 5. 宮島誠一郎の生涯
 6. 河上清、遠藤三郎、平貞蔵の「アジア主義」
 7. 大井魁先生の思想的意義
 8. これからの時代はどうなるか
 この中から、令和2年が雲井龍雄没後百五十年ということで、雲井龍雄に焦点を当てて書いてみることにします。

雲井龍雄の志
 雲井龍雄を雲井龍雄たらしめた生涯にとっての最重要人物は、師安井息軒であった。そもそも「雲井」の名は、安井息軒が詠んだ歌「今はただ忍ヶ岡の杜鵑(ほととぎす)いつか雲井に名をや揚げなん」に由来すると思われる。雲居に昇らんとする龍として自らを意識した。その思いは、雲井龍雄生涯の基調をなす。(「龍雄」の名は、天保15年正月25日、すなわち甲辰の年の壬辰の日の生まれに由来)
 私の「置賜発アジア主義」の構想は、中島岳志著『アジア主義ーその先の近代へ』(潮出版社 2014)に、曽根俊虎が宮崎滔天と孫文とを引き合わせた人物として登場したことに始まる。よくは理解できないまま印象だけは強く記憶に残る、尾崎周道著『志士・詩人 雲井龍雄』の最後の章を思い起こし、あらためて繙いた。最後の二つの詩について尾崎は言う。《(明治三年八月)十四日乗駕籍で東京の藩邸につき、十八日に小伝馬町の揚屋入りとなった。この三日ばかりの時に書きのこしたものである。安井息軒宛の書中にもこの詩(「北下途上」)を書いて、師匠へのいとまごいとした。龍雄はこの藩邸の獄でもう一つの詩をうたった。(「辞世」として知られる)
  死不畏死  死して死を畏れず
  生不偸生  生きて生を偸(ぬす)まず
  男児大節  男児の大節
  光興日争  光、日と争う
  道之苟直  道苟も直くば
  不憚鼎烹  鼎烹を憚らず
  渺然一身  渺然たる一身
  万里長城  万里の長城
  龍雄拝
 この詩は述懐とも辞世とも題せられて伝えられてきたが、「渺然一身万里長城」と咄(とつ)として、何故に万里の長城を龍雄が見るのか、長いあいだ疑問であった。真蹟の詩の終りに龍雄拝とあるのも解きかねていた。が、最近あるとき、フッと二つとも疑いは消えた。それはこうだ。 /龍雄が獄中でこの詩をうたうとき、牢格子を隔ててこれを聴く一人の男がいたのである。その名は囃雲曽根俊虎。この詩はまさに米沢の男が、米沢の男に志をつたえる絶命の詞に他ならない。龍雄は、燈下ひとり剣に看た清国への想いはやまなかった。いま幽明相隔てようとするときに、二人の間に万里の長城はあらわれ、延々とつづいたのである。荘厳な儀式というべきである。龍雄が死とともに天に騰ると俊虎は一躍して清国に渡って万里の長城の雲に嘯(うそぶ)いた。》(『志士・詩人 雲井龍雄』p238)
 このとき確かに、雲井龍雄の志は曽根俊虎へと引き継がれ、「アジア主義」の流れをつくることになる。ただしそのアジア主義は、大東亜戦争へと流れ込んだアジア主義とは明確に一線を画す。それは、木村東介が体験した、宮島詠士(大八)が中野正剛に向けた怒りを見ればいい。木村は言う。《二十二歳から三十一歳、柳宗悦の民芸品買い出し屋として重宝がられるようになるまでの約十年間は、美のハンターとして混迷の時代であったかも知れない。中野正剛傘下でごろついていたのも、詠士すなわち宮島大八に出会ったのもこの混迷のときであった。・・・同郷出身の血の気が多いばかりで知性に乏しい連中を十四、五人集めて、上野付近に雲井塾という看板をかかげていい気になっていた。雲井塾というのは郷里米沢の生んだ明治維新の志士雲井龍雄の名から取ったもので、揃いの黒シャツなどを着込んで中野正剛に従い、イタリアのファッショを気取り、体裁上、中野正剛などを顧問に連ねていたが、どうせろくな集まりではない。/日支事変勃発と同時に、宮島大八というやはりもと上杉藩の国士が支那から帰ってくるというので、これも顧問の中に並べておこうと思って中野正剛の紹介状をもらい、大八の渋谷の仮寓を訪れたのである。/丸刈りのズングリした印象で、奥の部屋から現われた大八は、わたくしのさし出した堂々たる「雲井塾塾長」の名刺を中野正剛の名刺とともに、もみくちゃに握りつぶしてしまった。突っ立ったまんま見ようともせずに……。・・・ 肩をいからして、玄関の土間に立ち並んだわたくしたちと、二枚の名刺をつかんだままわたくしを見下ろしている宮島大八の対立の図は、まさしく野犬の群れを見下ろす獅子の姿であった。大八は頭からかみつくようなけんまくで日本の軍や官僚、政治家、右翼たちをこきおろした後、「支那の何万何十万の無辜の民を殺し、幾多有為の日本青年の骨を中国の山河に晒して、いったい、なんの得るところがある。中野の馬鹿者にそう言っておけ。」/名刺は粉々になって、玄関先に雪のように散った。見当違いだったのである。》
 中野正剛は福岡出身で、旧福岡(黒田)藩から出た頭山満、内田良平らによって結成された玄洋社(黒龍会)の流れを汲む。その大東亜構想の行き着くところ帝国主義的野心と一体化、悲惨な敗戦への道をたどることになるが、その中心的イデオローグだった。一方の宮島詠士(大八)は、雲井龍雄とともに激動の幕末を駆け抜けた宮島誠一郎の長男にして、若くして中国に渡って究めた中国の書法を以て後進の指導にあたる傍ら、興亜の思いを実現すべく日中要人と深く交流、多くの敬仰を集めていた。支那と干戈を交えるなど決してあり得ない、まっとうな「置賜発アジア主義」の代表的人物であった。
 雲井龍雄の死の前年(明治2年)秋、同志が集い解盟の宴を催した際、その折の心境を託して詠ぜられた詩がある。「會舊部局將校於。置酒更盟。酔後、賦之」、その一部、

  聞説八小洲外別有五大洲  聞くならく八小洲の外別に五大洲あり
  長風好放破浪舟  長風放つに好し破浪の舟
  鳥拉之山太平海  烏拉(ウラル)の山太平の海
  去矣一周全地球  去って一周せん全地球
  ・・・・・・・
 尾崎周道の釈、《聞くに日本の外には五大洲があるという、破浪の舟を長風に放ってウラルの山や太平洋と地球を廻り、各邦の俊傑と親しく語り、万国の名勝を観てしかる後、故郷に帰って松菊を伴とすることが出来れば、一世の能事は終りだ》
 戊辰の敗戦を経てなお、いや、その雪冤の思いあればこそと言うべきか、雲井龍雄の志は、アジアからさらにウラルを越え、勇躍世界へと羽ばたいていたのだ。その雲井龍雄の志に、宮島詠士等に連なる「置賜発アジア主義」の源流を見る。

甦える雲井龍雄の詩魂
 明治3年12月28日(1871年2月17日)、斬首に当った八代目山田浅右衛門が「神色自若、まことに敬服に耐えなかった」と語ったという雲井龍雄の最後、27歳の若さだった。残した数多くの漢詩に込められた龍雄の念は、死後十年足らず、自由民権運動の中で息を吹き返す。
 嚆矢は、板垣退助が土佐に帰って設立した立志社の発行する機関紙『土陽新聞』だった。明治11年2月から4月に5回にわたって「雲井龍雄小伝」が掲載される。その記事を発掘紹介した有馬卓也広島大学教授は、色川大吉氏の論を引用しつつ言う、《色川大吉氏は雲井の詩を評して、「やがて自由民権家たちを奮い起たしめ、権力に抵抗し、従容として志に殉じてゆく明治革命家像の原イメージとなったのである。」「これまで雲井龍雄事件は、明治最初の”士族叛乱“あるいは”封建反動” として評価される事が多かった。しかし、それからわずか10年後に自由民権家たちがいかに雲井を愛惜したか、彼の志に鼓舞され、歴史を変えるエネルギーとして生かしたかは計りしれない。」「雲井の凄烈たる精神が、かれら反薩長の青年たちの肺腑をつらぬき、かれらの惰心をふるい立たしていたようだ。」と述べておられる。雲井に伴う強者に屈する事なく自らの意志をあくまでも貫き通そうとする勇者・豪傑のイメージと、時に退歩して潜伏し力を蓄える智将・潜伏者のイメージに加えて、結果として明治新政府という共通の敵に抗し、その政府によって処刑されたという事実により、彼は民権運動のプロパガンダとしての働きを充分に為し得るものと判断されたのである。ここに民権家の手により詩人から政治家に変容した彼は、明治10年代の英雄の一人として蘇生したのである。そしてそれは生前に詩人であるよりも政治家たらんとし、また自らの行為が「儒夫(臆病者)を立たしむるに足らん」と自負していた雲井には本望であったろう。》(「自由民権運動下の雲井龍雄の一側面 : 『土陽新聞』記載記事をめぐって」1984)
 雲井龍雄は「民権運動のプロパガンダとしての働きを充分に為し得るものと判断され・・・明治10年代の英雄の一人として蘇生した」。有馬教授は「雲井には本望であったろう」と言う。その後、『雲井龍雄詩文集』(明治13年)や小説『雲井龍雄実伝徳川回復龍浪」(明治16年)等の刊行があって、明治22年の大赦によって公式に名誉の回復を遂げる。「釈大俊を送る」は、昭和天皇の東宮時代、教育掛の杉浦重剛が親しく御前で吟じた詩として知られる。法泉寺にその詩碑がある。

雲井龍雄の本意
 しかし、この自由民権呼号の中での龍雄評価を苦々しく思って見ていたと思える人物があった。幕末の激動を龍雄と共に駆け抜けた宮島誠一郎である。
 幼少より深く交流あった宮島誠一郎と雲井龍雄、 二人は版籍奉還の評価をめぐって対立する。二人を分けたのは生来の気質個性に加え、それぞれが出会った師の存在だった。
 以下、友田昌宏著『東北の幕末維新: 米沢藩士の情報・交流・思想』(吉川弘文館 2018)に拠る。
 《誠一郎は慶応四年の戊辰戦争のおり、勝(海舟 1823-1899)と出会うことで、封建体制から中央集権体制へと国家意識転換の契機をつかみえたのであるが、龍雄は慶応元年に江戸に上り、安井息軒(1799生)の薫陶をうけることにより、その封建思想をいっそう強固で揺るぎないものとした。そして、それは戊辰戦争での探索周旋活動を経ても変わることがなかった。》誠一郎が《天皇のもとに国家の統一をはかる方途だと理解し、名実ともに正しい行為と評価》するのに対し、心通う君臣関係の上に築かれた封建体制に重きをおく龍雄は、そこに薩摩の邪謀を見て、真っ向から反対する。時の赴くところ、新政府による見せしめの意もあっ たか、明治3年暮、27歳にして雲井龍雄は刑場の露と散る。《誠一郎のこの日の日記には、「雲井龍雄梟示」と記されるのみである。》誠一郎にとって、かつての同志雲井龍雄も、新しい世にあってはむしろ苦労の種であったのかもしれない。
 宮島誠一郎は、「戊辰雪冤」の念をもって新政府に出仕、宮内省御用掛として明治天皇に親しく仕え、とりわけ東亜問題について重要な問題の発生した折、「そのことに就て宮島の意見を聞いたか」と、度々明治天皇から係りの者に御下問あったというほどの地位と信頼を得るまでになっていた。その誠一郎は、自由民権運動をどう見たか。
  雲井龍雄の精神が、自由民権運動の中で息を吹き返す中にあって、《誠一郎はと言えば、明治5年にいち早く立憲政体の樹立を提唱したにもかかわらず、民権運動を蛇蝎の如く忌み嫌った。》なぜならば、誠一郎にとっての立憲政体構想は、「君民同治」の理念の下に考えられていた。すなわち《立法権を君と民が分有することとしつつも、政府をあくまで天皇の代理者とし、その政府のもとに行政権を置こうとするものであった。》したがって《民権運動が目指す議院内閣制では、選挙でもっとも多くの人民から支持を得た政党が内閣を組織し、行政をも担当することになる。両者の政権構想が相容れないものであったことはここに明らかであろう。》
 実は、誠一郎の「君民同治」論は、米沢藩の偉材 甘糟継成(1832-1869)に発する。《「君民同治」の理念のもと議院を政権運営のなかに組み込むというこの構想は、誠一郎が継成から受け継いだものだったようである。継成が残した文書のなかに「君民同治政体表」なるものがある。そこに示された「君民同治政体」は、君主のもと、司法府・立法府・行政府を置き、立法府を上下両議院にわけるというものであった。殊に立法府についてはイギリス・フランス・ブロシャ・オランダの実態が、上下両院にわけて簡略に記されている。誠一郎はこれに着想を得て、自己の立憲政体構想を形作っていったのでないか。》
 継成には『鷹山公偉蹟録』(全21巻 1854-1862)がある。継成にとって「君」とは藩主だった。その流れを 汲む内村鑑三の『代表的日本人』、「上杉鷹山」の章の序にこうある。《徳がありさえすれば、制度は助けになるどころか、むしろ妨げになるのだ。・・・代議制は改善された警察機構のようなものだ。ごろつきやならず者はそれで充分に抑えられるが、警察官がどんなに大勢集まっても、一人の聖人、一人の英雄に代わることはできない》《本質において、国は大きな家族だった。・・・封建制が完璧な形をとれ ば、これ以上理想的な政治形態はない》。徳ある君主を得た封建制に信を置くというのは、まさに謙信公以来鷹山公を経て米沢藩に伝わる基本的エートスではなかったか。雲井龍雄にとってもそれはまさにそうであった。それがあっての師安井息軒への傾倒であったにちがいない。そもそも安井息軒は鷹山公の実家高鍋藩の隣藩飫肥藩の出、鷹山公の治政を追って米沢を訪ねてもいる。鷹山公を範とするところの理念の共有を思う。してみれば龍雄にしても、新しく変わった世を生きていれば、「民」への全権委任を求める自由民権運動よりも、誠一郎の「君民同治」論に近かった、そう思える。自由民権運動の中での己れの再評価も、本人にしてみればいささか苦笑気味で眺めていたのではなかろうか。
 
雲龍図 Scan 小サイズ.jpgおわりに
 雲井龍雄の命日が明治3年12月28日として、この日は新暦では1871年2月17日である。令和2年が「没後150年」とすると、没年を「明治3年」とするか「1871年」とするかで、「没後150周年」か「没後150年目」になる。私は、令和2年も2021年も両方とも雲井龍雄を偲ぶ年にすればいいと思う。
 私にとっての雲井龍雄との出会いは、村上一郎「雲井龍雄の詩魂と反骨」(『ドキュメント日本人 3 反逆者』所収 昭和43年)よってだった。

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 雲井龍雄は、漢詩というものがもう日本の青少年教育から追放されてしまった今日の若者たちには、縁遠い人となっている。しかし、それが世の中の進歩、教育の発展であるとはわたしにはまったく考えられない。わたしは心から、この忘却、この抹殺を、雲井龍雄の渺たる一身をこの世から消し去った明治社会の酷薄以上に罪ふかいものと考える。これは日本の万世に伝うべき詩心を、残忍に葬ってしまう教育の頽廃、文化の堕落の一つのあらわれであると信ずるのだ。雲井龍雄は、藤田東湖や頼山陽とともに、今日日本の近代詩史の序曲の上に復活せねばならぬ大事な一人である。わたしはこれらの人によって日本の詩の近代は用意され開始されたのだと信じている。
 詩の詩たるゆえんは、期するところのない魂魄の躍動にある。その意味において、当今功利の文人が、ためにするところある文学のことごとくは、雲井龍雄の詩心の前に、ほとんど顔色ない。そしてその詩心は、反逆不屈の一生と一体である。ここに日本東国の志硬い青年のおぐらくも勁い情念の一典型が塑像のごとく立っている観がある。その沈冥鬱屈の情を、今日の青少年は知らねばならぬ。

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 詩吟を始めて間もない頃、この文章に出会って揺さぶられた。それまで漠然とした存在でしかなかった雲井龍雄は、この時から、私の中に生命あるかのようにして甦った。これから2年間、あらためてじっくり雲井龍雄に心寄せてみたいと思う。

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