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街頭から訴えました(2)吉野石膏・須藤永次について [市議選]

昨日の街頭演説です。事務所前で語ってその次のものです。https://www.youtube.com/watch?v=n0EAjhpROFo  今日から街頭演説を始める陣営も出てきてくれそうです。

昨日24歳の若者にその投票判断について尋ねる機会がありました。「候補者の政策を見て判断する、誰かに頼まれてということはない」という答えでした。私のポスターも、「若い人は読む」というので息子に添削してもらいながら仕上げました。選挙公報も同じ文章です。選挙公報も行き渡ったようで、反応はいいように受け止めています。読んでいただいている手応えを感じます。しかし、私の出馬が支持されているとすると何よりも、私の出馬によって選挙になった、これがいちばん大きいです。そのおかげで街頭で思いっきり語れるということも確かです。選挙で何が大変かというと、一票一票の票の積み上げです。いくら街頭で声を張り上げてもそれが票につながるかどうかは別レベルです。私は今回、出馬自体が評価されるということで、その分恵まれた選挙をさせていただいているのかもしれません。それがどんな結果となってあらわれるか。気を緩めずに今日もがんばります。これまでは自分で自分を昂めるようにしてきたところがありますが、今日からはあまりテンションをあげずに語っていこうかと考えているところです。

以下、須藤永次についてチラシ裏に書いた文章です。

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 4年前、地区長連絡協議会長に就任して白岩市長に会った時、真っ先に言われたのが「宮内公民館なんとがさんなねね」でした。その言葉を受けて本気で考え始めました。宮内公民館は「南陽市文化センター」でもあります。構想は吉野石膏とタイアップして実現する「吉野石膏・須藤永次記念館」へと発展しました。南陽市民大学で天童市美術館に行ったとき、「なぜ天童に吉野石膏コレクション?」の問いの答えが「南陽市に美術館がなかったからです」でした。それが須藤記念館構想へと膨らんでゆくことになります。
 須藤恒雄吉野石膏先々代社長に直に聞いた話があります。「空襲を逃れて宮内への疎開が終わったのがちょうど終戦の8月15日。ようやくやれやれと思ったその晩、親父(須藤永次)が『すぐ東京へ戻る。これからがいよいようちの出番。燃えない住宅をつくらねばならん。』と言い出した。9月になるとステッキ一本で東京に戻って工場再建の準備が始まった。うちが持ってる耐火ボード製造特許を同業者に公開します。親父の考えは、『自分だけで頑張ってもだめ。競争して切磋琢磨しながら石膏ボードを普及させねばならない』だった。」宮内生れの須藤永次が、それまでは木と紙でできた日本の住宅を”燃えない住まい”に変えたのです。
 永次は若い頃はやんちゃでした。13歳で奉公に出ておぼえた商売も目先の利益を追うやり方でした。それを大きく変えたのが「セメント王」浅野総一郎との出会いでした。浅野には、日本の近代を担った実業界の大物たち(渋沢栄一、益田孝、、安田善次郎、大倉喜八郎、後藤新平)との人脈がありました。昭和4年の大恐慌下、製糸業で失敗して東京に出た永次は、浅野を通して直接間接そうした人物たちの影響をうけて志を育てていったのです。
 決して最初から立派ではなかった須藤永次は、日本の住宅を燃えない住宅に一変させ、さらに世界に誇る吉野石膏コレクションを生み出しました。南陽の子どもたちも多くのことを永次から学ぶことができるはずです。そのための記念館構想です。いつか是非実現してほしい。
 ※参考 吉野石膏 須藤永次伝(南陽市民大学講座)
 

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