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「須藤永次記念館」構想→出馬決意→断念 [市議選]

【3/16朝追記】
最初の出馬決意から断念までの経過を書いておかねば、と思い書き始めたのでした。断念を決意して火消しに回った直後でした。11日の午後2時にこの記事を「下書き」にアップしています。11日は、こんなにホッとした気分でいいんだろうかと思えるような一日でした。夜の小学校での会合までは。それ以後の展開は別記事にします。以下はまだ公開せずに下書きのままだったのですが、昨夜少し書き加えて、今、このままアップします。このあとの展開も書き留めておきたいことあるのですが、そうもしておれなくなったので次のステップに跳ぶことにします。→「市議選に立候補しました」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-03-16
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私にとっては「激動の10日間(ぐらい)」だった。《いろんなことが合わさって夢を見た。「今がその時なのだ」というリアルな僥倖の感覚があった。白頭山(長白山)神事で山頂に在った時の感覚に似ていた。現にそこに在って、揺るぎなく厳としていた。目覚めて、決意が芽生えた。この先どうなるかはわからない。》と書いたのが2月11日のことだった。そこから今までの流れをたどっておきたい。
家内に語ったのは2月も末に近かった。決意の固さを見てとったか否定の言葉はなかった。3月15日の出産予定日を控えて長女が帰っている。2月23日には長女の応援ということで、まもなく1歳の子どもを連れて次女が帰ってきていた。家内に語った数日後、長男と3人そろったところで話を切り出した。娘たちは驚きを隠さなかったが、長男は状況を察していた。娘たちも「やむなし」に傾いた。竹さんに決意を語ったのは3月3日だった。
もうひとつの流れがあった。「宮内に新しい拠点をつくる会」の定例会が2月25日。前月の、「いろんな要望を思いつくだけ挙げてみよう」ワークショップを、年度末の要望書提出に向けて整理することをテーマに話し合われた。世代を超えて、立場を超えて自由に意見を出し合えるこの会の雰囲気を好ましく思っていた。ただそこで充足してしまいかねないところにじれったさを感じてもいた。行政への距離が遠い。いくら本気で語っても所詮「市民の声」、要望「実現」の展望などまったくないに等しい。その日の会合は私はほとんど聞き入るだけだったが、そのスタンスの緩さにイライラしていたのもたしかだった。家内に決意を語ったのはそのすぐ後のことだった。「内部に入らなければならない」と。3月2日までに、これまでの議論を踏まえ、それぞれ自分の思いを竹田事務局長に提出することになっている。書き出したら、それまで漠然としていた「須藤永次記念館」が6階建の建物になって像を結んだ。それを3日の朝メールした。と同時に、この「須藤永次記念館」のイメージをひたすら訴える選挙戦を思い浮かべてワクワクした。
並行して考えていたことが、私が立候補したことで辞退する人が出れば選挙にならない可能性が大きかった。選挙に持ち込むにはもう一人立候補者を用意せねばならない。以前から打診していた40代のK君を呼び出して話した。「おれと一緒にやらないか」。一両日悩んでくれたが、先頭に立って旗振り役として周りを導くということには不向きです」の答えだった。もうひとりは30代のMさんだった。「君のような若い女性の感覚、考えがどうしても必要だ」。手応えを感じ、一晩考えてもらったが、うまくかみ合わせることができなかった。
こども園の理事会が3月5日にある。そこで理解を得て初めて前へ進める。口の先まで出かかったがそれまでは園長にも洩らさなかった。議事の最後に「実は」と切り出すと驚かれはしたが「それはいい!」と受け止めていただいた。山形市からお出でいただいているK先生の顔のほころびが忘れられない。
翌朝、どこから行こうと思案していたところに頭取が訪ねてきた。お産を控えた娘のいる自宅に事務所は考えられない。獅子冠事務所でもある百花園にお願いできればと思っていたところだった。頭取は「白鷹山に「伝国の辞」脾をつくる会」で共にやってきた高橋議長の応援を考えていたのだが、私の事務所にすることについておおむね了解を得た。朝早くから出かけるつもりだったが、出たのは午後になっていた。この日は金曜日、選管に行くつもりだった。もう4時半を過ぎていたと思う。市役所に向かうところで反対の方向にハンドルを切った。「今日選管に行けば明日か明後日の新聞に出る。前もって言わねばならない人がまだまだいる」、とっさの判断だった。マルタに行ってゆっくり話し込むことになった。
その翌日は土曜。午後から、責任者に頼むつもりでK氏を訪ねたらそのお袋さん「今日は参宮に行ったよ」。その言葉に愕然とした。なんと参宮を忘れていたのだ。獅子冠同志に出馬を表明する絶好の機会のはずだった。しかしそのとき参宮に行っていたら、その後の断念はありえなかった。・・・と、断念、そしてその後始末と書くことはいろいろあるのだが、自分のやりたいことは「須藤永次記念館」の実現一本であり、新コロナウイルスの嵐の中ではそれは全く意味をなさないことを悟ったとき、出馬に向けた気力は一気に萎えたといっていい。目覚めた布団の中でしばらくの苦悶の末「出馬を辞める道もある」と思ったときの、波がすーっと引いていく感覚は今もしっかり思い起こす。その後数日間、こんなに楽な気持ちでいいのかとも思ったものだった。とりあえずは「須藤永次記念館」構想は棚上げになったのだった。
以下、「須藤永次記念館」構想です。
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須藤永次記念館のイメージ

(「宮内に新しい拠点をつくる会」での昨年来の議論をふまえまとめてみました。)

◎今の宮内公民館から百花園にかけた場所です。
◎南側が駐車場です。
◎熊野門前にふさわしいシェルターなんようホールのような木造六階です。
◎一階

「だれもが気軽に集える場」、そこに行くといつもワイワイガヤガヤ、何時間でもすごせます。
いろんな本があったり、情報誌があったり、そして最先端IT環境に対応します。
カフェのようなものがあってもいいです。軽い食事で一日過ごせます。
弁当持ってきて食べれる雰囲気あっても楽しい。(昔の「弁当持ち」思い出した)

南陽の情報の集積地の役割も果たします。
観光の人、熊野大社参拝の人も気軽に立ち寄れます。
だれでも気軽に出せるフリー売店コーナーがあってもいい。いろんな催事も行えます。
菊まつりには、ここをメイン会場にして、フルに活用します。
事務室があって館全体を管理します。(館内監視装置あり)
ここで入館券を販売します。(六階の「吉野石膏コレクション」は500〜1,000円。市民は無料です)
◎二階

会議室。学習室。調理室。倉庫。
熊野の夏祭りには、その拠点として活用されます。(獅子冠事務所の役割も)
◎三階

南陽歴史館。南陽資料館。
熊野大社所蔵品、「時代(とき)のわすれもの」所蔵品も含め、南陽で残すべき資料を展示収蔵展示します。
赤湯の白竜湖、前方後円墳遺跡。北町遺跡関連の展示もほしい。
ここに来ると、南陽の歴史がわかり、さらに学ぶ意欲が湧いてきます。
空調環境が整った収蔵庫があります。
◎四階

南陽に関連ある人物を知るコーナーが設けられます。
宮内でいえば、田島賢亮、須藤克三、芳武茂介、小田仁二郎、黒江太郎、結城健三と結城よしをといった人たちのコーナーです。赤湯の錦三郎、漆山の多勢亀五郎、中川の水心子正秀、吉野の宥明上人などもいます。
◎五階/六階

須藤永次記念館です。

・五階には須藤永次及び吉野石膏に関する資料を展示収蔵します。

 須藤永次の人間像とともに吉野石膏が日本の住宅づくりに果した役割を浮彫りにします。
 須藤永次が田舎商売から志を持った実業家へと変身させた浅野総一郎との関わりを軸に、後藤新平、渋沢栄一、益田孝、安田善次郎、大倉喜八郎といった、近代日本を切り開いた良質な志と出会う場となればと考えます。ここを訪れることで、これからの日本、世界を担う志に火が点けられるのです。

・六階は吉野石膏コレクション展示場。
 山形美術館(洋画)と天童市美術館(日本画)から収蔵品をお借りし、年四回、季節ごとのテーマを設定した企画展を常時開催します。

 館長室、管理室があります。初代館長には天童市美術館の池田良平館長に就任いただきます。池田館長は、先代社長須藤永一郎氏の「美術館の使命は観せるだけではだめ。その作品のすばらしさを観る人にきちんと伝えなければならない」との考えを忠実に実行して、一点一点について感動的な説明をしてくださいます。
◎屋上

東に秋葉山、遠くに吾妻、栂峰から飯豊の山々を望む置賜の国原、下に鳥居の場を中心にした宮内の街並みを見下ろし、振り向けば熊野の森から双松公園を見渡せる最高のロケーションです。
屋根付きのステージがあっていろんなイベントも行えます。・・・

■今、新コロナによって、これまで経験したことのない苦難の時を迎えようとしています。経済至上の世の中にストップがかかったことで、「ほんとうに大切なことは何か」という問いが突きつけられているように思えます。それをふまえつつ、思いっきり夢を膨らますことも意味あることに思えます。「須藤永次記念館」構想もその一環です。ほんとうに心の底から思ったことは、必ず実現します。

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