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「太陽凝視」のすすめ(『イスラーム哲学の原像』) [本]

井筒俊彦著『イスラーム哲学の原像』について。「神秘主義」のその突き抜けた先を見せてくれている。
「神秘主義」とは何か。『神秘哲学』(井筒俊彦 1949)冒頭の言葉、神秘主義的体験は個人的人間の意識現象ではなく、知性の極限に於いて知性が知性自らをも越えた絶空のうちに、忽然として顕現する絶対的超越者の自覚なのである。≫を、若松英輔氏は神秘体験とは人間が神を見ることではない、神が神を見ること》と言い換えた。神秘主義と神秘道』要するに、自らの「神性」体験。
「神秘」の言葉からは「秘密」を連想させ、特別な近づきがたさを思わせる。しかしこの書は「神秘主義」を近づきうるものにしてくれた上で、さらにその先、だれにでも容易にわがものとし得る「神秘体験」の可能性を示唆してくれている。そこではもはや「秘密」でもなんでもない。
イスラーム神秘主義の修行者(スーフィー)は、ズィクル(唱念)とよばれる観想法によって魂の高みを目指す。その過程で体験されるイメージについてのナジュームッ・ディーン・クプラー(1145-1221)による記述がある。
その五段階のうちの三層目、《「魂がこの状態に入ると、きみは時として、きみの目の前に一つの円が現れてくるのを見るだろう。この円は十方に燦爛たる光を発散する巨大な光の泉のように見える。つまり自分の経験的自我を超克しつつあるきみの目の前に突然、きみ自身の顔の丸い形が現れてくるのだ。それは磨き上げられて塵一つ残さぬ鏡のように澄み切った清らかな光の円である。この円はしだいにきみの顔に迫ってくる。そしてついにきみの顔はその円のなかに吸い込まれてしまう。もし、きみが本当にこういう経験をしたらこの円こそ自分の魂の第三層のイマージュだと考えてまちがいない。」》(88-89p)ここでは「光の円」が出現する。そして次の段階、《顔の前に現われた円がしだいに澄みきってくると、それは明るい光を発出し始める。まるで泉から噴出する水のように光は出てくる。そして修行者はこの光が実は自分の顔からそのまま噴出しているのであることに気づく。光は彼の目と眉のあいだから発出する。やがてこの光の円は、彼の顔全体をそっくり包み込んでしまう。と同時に、彼の顔のまん前にもう一つ別の顔が現われる。この顔もまた光を発出している。そしてその光の薄い垂れ幕の向こうに燦爛たる太陽が見える。この太陽は前にうしろに揺らめく。この第二の顔こそきみの本当の顔なのだ。この太陽こそきみ自身のなかで彼方、此方に揺らめくルーフ(意識の第四層)の太陽なのである。」》(90p)「光の円」から光が泉のように湧き出してくる。(第三の目から発せられているかのようにも見える。)《そのとき、一種の純粋な精神的清澄さが大気のようにきみの体全体を包んで、きみは自分の面前にまぶしいばかりの光を噴出する光の人が立っているのに気がつく。それと同時に、きみもまた光を吹き出していることをきみは自分で意識する。」》(91p)このとき人間は、肉体としての人間から「光的な人」へと変容をとげている。ここで体験する「われ」こそが「真のわれ」なのである。「真のわれ」にとって「神」は、それまでの「彼」という第三人称的存在ではなく、ついに「汝」という第二人称的存在としてムナージャート(親密な二人)となっている。
 《ああ、なんという不思議なものか、われと汝のこの結びつき。
  汝の汝は、われのわれをわれから消し去って
  あまりにも汝に近く引きよせられたわれ故に
  汝のわれか、われのわれかと戸惑うばかり。》(99p)
さらにその奥に見えてくるのが「神的第一人称」の世界。その世界は、存在の経験的次元を超えた「形而上的次元」の世界。そこに入ると《経験界で成立していた「われ」の姿は幻のごとく消えて、ただ一つ、「神的われ」になってしまいます。汝に対する「われ」ではなくて、ただの「われ」です。「われ」ともいえない「われ」であります。もうここでは対話の余地はぜんぜんありません。神のモノローグ、独白があるだけです。神の独り言です。スーフィーの「われ」に対する神の「汝」はここにはないのです。》(100-101p)
このイスラームの修行者(スーフィー)の神秘体験の見事な記述をゾクゾクしながらたどってみれば、なんのことはない、古神道における「浄身鎮魂法」の体験と同じなのではないか。「大空に聳えて見ゆる高嶺にも登れば登る道はありけり」(明治天皇)。
ここで自ずと「太陽凝視」にリンクした。すなわち「浄身鎮魂法」と「太陽凝視」は同一体験の裏表であるに気づかされていた。(→https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2014-02-04クプラーによる神秘体験の記述はそのままそのことを証している。何も回り道することはない。最初っから「太陽」にまっすぐに向き合えばいい。そう思ってあらためて書かれてあることを読んでみれば、この書は「太陽凝視」への手引書として読めたのである。
もう一つ別の章「存在顕現の形而上学」にあった詩句、
 《棄てよ、理性のさかしらを。
   常に実在に融化してあれ。
  ひ弱なる蝙蝠の目に、燦爛たる
   太陽を見詰める力はないものを。》(157p)
「理性のさかしら」が「太陽を見詰める」ことから遠ざけてきたと言っている。
《赫赫たる太陽にも比すべき実在、すなわち存在の形而上的リアリティーを、光に堪えぬ蝙蝠の目にも比すべき理性によって直視しようとする人間の愚かさ。・・・普通の人間は、形而上的実在の光を光としては見ていない。ちょうどあのプラトンの「洞窟の比喩」にありますように、洞窟の奥で、背を向けて坐っている人たちが、太陽の存在にすら気づかずに、ただ太陽が壁面に投げかける事物の影を眺めて一生を過ごすようなもの。「外界」と呼ばれるスクリーンにうつる光の反映を、唯一の実在であると信じこんで、それで満足している》(158p)。《「いわゆる経験的世界こそ「秘密」である。永遠に隠れた何ものかである。反対に絶対的新実在は永遠にあらわなるものであって、決して隠れるということはない。」(イブン・アラビー)》とすると、太陽こそ「絶対的新実在」だ。イブン・アラビーおよび彼に従う存在一性論者たちの見地からしますと、「存在」とは、無限に異なる形を通して自らを顕現して止まぬ唯一の創造的リアリティーということになります。このリアリティーのダイナミックな創造衝迫は、「慈愛の息吹き」となって宇宙十方に貫流しーーと言うより宇宙そのものを形成しーー到るところに自己顕現の形としての存在者を創り出していく。》(196p)宇宙十方に貫流する「慈愛の息吹き」、まさに太陽にこそふさわしい言葉である。そこから一切が展開する「存在の本体」すなわち「絶対一者」としての存在としての太陽。
この書の結語にこうある。《このこと「絶対一者」)を説明するためにイスラームの思想家たちは、よく太陽と光線の比喩を使います。太陽から光が発出して四方八方に散っていく。太陽が先で光が後なのか。しかし太陽と光の間には時間的前後はない。太陽があれば、そこにそのまま光が現われる。太陽が光として顕現する。前も後もありません。しかも太陽と光との間には、無時間的、あるいは非時間的に前・後がある。一者と多者との存在論的関係もそういう前後関係だ、と申します。》(209p)もはや「比喩」ではない。「太陽」即「絶対一者」であり「存在の本体」である。それは「太陽凝視」によって誰にでも身を以て容易に体験できる。ーーこの時点で「神秘主義的体験」は、あっけなく、特別な秘密でもなんでもない「日常性」さえ備えはじめることになったのでした。
飯山一郎師いわく、《太陽凝視はまさにスピリチュアルな世界。科学的な裏付けのある、上っ面ではない本物のスピリチュアリティが、これからの時代の最先端を行くであろうし、今後の役割はとても重要だと思いますね。》

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