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「出雲と大和」展(2)なぜ『日本書紀』が編纂されたのか? [歴史]

前記事に関連して亀さんが書かれました。
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280 名前:亀さん 2020/02/08 (Sat) 13:10:22
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ところで、はぐらめいさん、新記事を拝読しました。

> 令和2年(2020)は、わが国最古の正史『日本書紀』が編纂された養老4年(720)から1300年という記念すべき年
https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-02-07

あっ、そうでした。現在は本業が多忙なため飯山史観の執筆を一時中断していますが、それも日本書紀を本格的に取り上げる寸前で一時中断しています。三月に入りましたら、日本書紀の〝正体〟について、飯山さん、天童さん、そして鹿島昇氏らの日本書紀観をまとめ、ハイブリッド記事、謂わば三人の良いとこ取りつつ、日本書紀に関する記事になる見込みです (*^^*)

コタツから抜け出した亀さん@人生は冥土までの暇潰し
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1300年前のその時期に、なぜ『日本書紀』が編纂されたのか? この疑問に答えてくれるのが、守谷健二氏でした。副島隆彦学問道場の「重たい掲示板」で展開された議論を、守谷氏の了解を得てこのブログで紹介させていただいたことがあります。5年前です。
「日本書紀と天武天皇の正統性の問題」について(1)https://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2015-02-22
「日本書紀と天武天皇の正統性の問題」について(2)https://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2015-02-23
「日本書紀と天武天皇の正統性の問題」について(3)https://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2015-02-24
最近の議論も転載させていただいたところです。
3世紀から7世紀まで北九州と韓半島の南にかけて存在した倭国は、畿内=奈良盆地を中心とする大和王権とは全く別物です。その倭国が白村江の戦い(663年)で大敗北を喫し、倭国の王であった天武天皇(大海人皇子)は、倭国を大和王権に溶け込ませることで倭国の再生を図ります。それは見事に効を奏し、倭国は消滅して大和王権に統合されるも、天武天皇は大和王権の長となるのです。『日本書紀』とは、中国(唐朝)に対し、かつて在った倭国の存在を隠蔽し、天武天皇の正統性を示すために編纂された歴史書だった、というのが守谷説です。
この守谷説はまさに「飯山史観」に通底します。 飯山史観ワールドは目眩くばかりのすごい世界で、亀さんによる整理を待ちたいと思いますが、とりあえず以下を転載させていただきます。
「天武天皇以前の日本列島には「歴史」がなかった…」http://grnba.jp/more19.html#ws0304
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◆2011/03/04(金) 金王朝の “深い深い謎” -93-
 天武天皇以前の日本列島には「歴史」がなかった…
皆さん、こんにちは。梁(ヤン)です。
昨日の続きをもう少し語らせて下さい。
「奈良の平城京」というのは、ようするに「北魏の平城京」の再現! でした。
もっとハッキリ言ってしまえば、コピー&ペーストでした。
ですから、「平城京」と名乗ったワケです。
(中略)
白村江戦の敗北後…、
百済は日本列島に逃避してきます。
百済の王族・貴族・佐平(官僚)・教授・学者・医師・薬剤師・巫女・覡(かんなぎ)、土木技師・設計技師・土木工・大工・宮大工・鉄加工技師・鋳造工・造船工・僧侶、筆墨工・陶芸工・瓦工・馬具職・絵師・画工…、ありとあらゆる百済人の渡来です。
ですから…、
この百済人の大移動は“逃避”などというレベルではありません。
『百済』という国家そのものが、そのまま、日本列島まで運ばれてきた!
ということです。
これは、日本列島に『後百済国』が設立された! ということです。
さらに、これは、日本列島における史上最大の大変革です。未曽有の大事件です。
この大歴史事件の重要性を完全に認識して書かれた歴史書はありません。
『日本書紀』は、ひとつには、この歴史大事件を隠蔽するために書かれました。

日本列島の中心部に到達した『百済』は、その地において大規模な国家設立事業を開始します。
このとき、北魏の平城京で学び取得した膨大な知恵と技術の集積が活かされます。
先ず、『百済』は、新国名を名乗ります。この新国名こそが、『日本』です。
次に、『百済』、いや『日本』は、凄(すさ)まじい勢いで “都市国家” (都城国家)を次々に築造していきます。
それが「難波京」であり、「藤原京」であり、「平城京」でありました。
どれも、とてつもなく華やかで複雑な城市構造をなした巨大都市でありました。
これにより日本列島は、豪族・土族の古墳時代から一挙に都市律令国家の時代に突入します。

以上のようにして、日本列島は、全く新しい歴史時代を迎えました。
新しい国づくりの事業を、神にも似た威力で終始主導したのは、大海人皇子でした。
大海人皇子は、古式豊かな『大嘗祭』を挙行し、日本初の『天皇』になられました。
『天武天皇』の誕生です。

天武天皇は、次に、歴史編纂事業を開始します。
「歴史」といっても、「歴史」は始まったばかりですから、何を書いたらいいのか?
過去には「歴史」などありません。
豪族・土族が築造した巨大な古墳と、都市とは言えない集落が点々とあるだけ。
ですから、『帝紀』、『旧辞』などは、影も形もありませんでした。
そもそも『帝紀』や『旧辞』を残すような知的官僚など、何処にもいませんでした。
じゃあ、いったい『日本書紀』は、何を史料としたのか?
簡潔に正解を言っておきます。
百済から来た史官は、いわゆる百済三書(『百済記』、『百済新撰』、『百済本記』)
を“底本”としました。
ですから『日本書紀』に記述された天武以前の“物語”は、そのほとんどが、満州
における史実と史料の断片なのです。

ハッキリ言います。
日本における「天皇制」は、『天武天皇』から始まりました。
『日本国』の歴史も、『天武天皇』から始まりました。
したがって…、
『天武天皇』以前の日本列島には、「歴史」はありませんでした。
列島のあちこちに、巨大な古墳をつくった豪族土族が集落をつくって棲んでいた…。
それだけです。
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このような説は現状ではまだまだ異端です。しかしちんぷんかんぷんな古代史が、こうした説によってくっきりとしたイメージをもって腑に落ちるのです。知識の多寡なんかは全く問題でなくて、いろんな物事についてどれだけ納得しているかが大事です。「ほんとうのこと」とは、わかってしまえば案外簡単なことなのです、おそらく。図録の論考、読むのにほんとうにくたびれました。学者の世界はたいへんです。
なお、『日本書紀』をめぐっては、mespesadoさん(川村明氏)の考察もあります→「九州王朝説批判」http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kyusyu.htm

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コメント 2

めい

「放知技」板に書いてきました。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/17003576/285/

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285 名前: はぐらめい 2020/02/09 (Sun) 10:21:48
>>280 亀さん

亀さん発言に乗って、こんな記事を書きました。↓
「出雲と大和」展(2)なぜ『日本書紀』が編纂されたのか?
 https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-02-09

副島板の守谷健二説を大事に読んできました。
守谷氏に対して副島氏が、
《守谷さん。日本書紀を、あなたなりに、その真実を読み破った、
という書き方だけでは、ここの読み手たちを、説得する事はできません。
「古代史を専門とする日本史学者のだれそれが、このように書いている」
という書き方が、どうしても必要なのです。
このことをどうか、分かってください。
私は、くだらない権威や、日本の学者の世界にひれ伏せということを
言っているのではなりません。 
コトバのもつ、共同了解性として、
「有名な、◯◯という学者が、このように書いている。
しかし、私は、そうは思わない。
なぜならば、文献や、証拠として、
たとえば、中国の24正史のひとつの『旧唐書(くとうじょ)』に
このようにはっきりと書かれている」という書き方をしていただきたい。・・・》
と書かれたのを読んで、
副島氏の誘いの先にあるのは、
守谷氏の立ち位置とはまるでちがう「学者地獄」でしかない、と思いました。

するとすぐその後、守谷氏は
「小生、新潟の古町と云う繁華街(昭和の新潟の中心街。今は夜の街としてかろうじて余命を保っている)
の場末の深夜食堂で働いて糊口を凌いでいる者です。」
と自らを語りました。
学者に付き合っている暇はないのです。

ひたすら自らの「腑に落ちる」ためだけの歴史理解というものがあっていい。
そうした理解は「腑に落ちた」時点で完結する。
それを人に伝えようとかどうとかはまた別次元の問題だ。
「伝える」ことを最初から前提にするから
副島氏のように言わねばならなくなるのです。
守谷氏の文章からは「実在にふれ」た手ごたえが伝わってくる。
守谷氏は、歴史を「生き」ているのです。

守谷氏の文章は、副島隆彦学問道場「重たい掲示板」の右上にある
「ワード検索」で「天武」で検索すると全部読むことができます。
2013-10-02付【3713】からです。http://www.snsi.jp/bbs/page/1/

by めい (2020-02-09 10:28) 

めい

亀さんに紹介していただきました。野崎博士のブログ記事、あらためて読むことになりました。亀さん、ありがとう!

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297:亀さん:2020/02/10 (Mon) 03:40:04
>>285
はぐらめいさん、以下の新記事を有難うございました。
「出雲と大和」展(2)なぜ『日本書紀』が編纂されたのか?
https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-02-09

出雲と言えば、野崎博士の以下のブログ記事も欠かせませんね。
古代出雲王朝の謎
http://iiyama16.blog.fc2.com/blog-entry-8486.html
柿本人麻呂と出雲王朝
http://iiyama16.blog.fc2.com/blog-entry-8494.html
柿本人麻呂と出雲王朝(2)柿本人麻呂の出自
http://iiyama16.blog.fc2.com/blog-entry-8495.html
柿本人麻呂と出雲王朝(3)九州年号について
http://iiyama16.blog.fc2.com/blog-entry-8496.html

ちなみに、野崎博士は島根県出身であることはご存知のとおり。
上海で同郷人に遭遇
http://iiyama16.blog.fc2.com/blog-entry-9613.html

> 副島板の守谷健二説を大事に読んできました。

はぐらめいさんが守谷氏の投稿を紹介していた、過去のブログ記事を幾度か目にしたこともあり、小生も直接副島板の同氏の投稿に目を通したことがあります。愚生の前の投稿(>>280)で、飯山さん、天童さん、そして鹿島昇氏の三名の名を採り上げましたが、これに栗本慎一郎と守谷健二氏の記事も再読せねばと思った次第です。有難うございました。三月に入ったころ、再び大量の仕事が入らなければ、じっくりと腰を据えて読み進めるつもりです。
__________
守谷氏の文章は、副島隆彦学問道場「重たい掲示板」の右上にある
「ワード検索」で「天武」で検索すると全部読むことができます。
2013-10-02付【3713】からです。http://www.snsi.jp/bbs/page/1/
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亀さん@人生は冥土までの暇潰し

by めい (2020-02-11 06:25) 

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