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山口富永著『昭和史の証言ー真崎甚三郎・人その思想ー』を読む(5) [本]

著者は入隊して近衛兵となるも、その一本気のため、《二年間いて、軍紀の峻厳がわからぬとかその他の理由で、幹部候補生をおとされ、二等兵で帰ってきた》とき、真崎大将からハガキを受け取った。「軍隊に阿りては軍紀を守り上官の命令に服従し、軍務に勉励することが即ち忠なり。服従は自我を没却することなり。自我没却は修養の極地にして天皇帰一の大道なり。自我没却は自殺に阿らずして個我を益々拡大して普遍我に至らしむることなり。信心とは心を信ずるなり。此心は宇宙と合体したる心なり。親驚上人は自我滅却と善行を積まれ終に他力本願の境地に達せられ初めて慶喜せられたり。篤と熟考せられ度。」》〔196p)いま、井筒俊彦著『イスラーム哲学の原像』(岩波新書 1980)を読んでいるが、それと重なった。スーフィズムは「イスラム神秘主義」あるいは「イスラム神秘家」のこと、《スーフィズムの修行とは、要するに自我意識を基礎とする外的認識器官の働きをとめて、それの支配を脱却して、内的認識器官をできるだけ純粋な形で働かせ、それによってしだいに意識の深みにひそむ神的「われ」の自覚に到達するための意識変革の道であります。》(54-55p) 真崎の理解者で『軍閥の系譜』を著した岩淵辰雄は、「真崎さんは軍人というよりも教育者であり、思想家であって、天台杉浦重剛のような人だ」と言ったという。(ちなみに杉浦重剛は昭和天皇摂政宮時代の御進講掛で、御前にて雲井龍雄を吟ずることしばしばであった。陛下もそれを求められたという。)真崎甚三郎という人は、近くにあればあるほどその値打ちがわかる、そういう人だったのだと思う。昭和31年8月31日に80歳の生涯を終えた時、郷里の佐賀新聞に掲載された多くの追悼文からそれが伝わった。

真崎には3人の息子がいた。三男の幸男は、軍人を志望し、「私はお父さんのように偉くはありません。しかし、お父さんより偉くなる道を知っております。」と言って戦地に向かい、ビルマの戦場で敵に包囲された時、腰の周りに十数発の手榴弾をつけて、一人敵中に飛び込んで戦死、靖国神社に祀られた。それが「父より偉くなる道」だったのだ。

次男の芳雄については、長谷川伸の『日本捕虜志』にこうある。《『日本軍のとリッピン捕虜収容所に、慶応大学出身の真崎芳雄中尉という、現地召集になった会社員だった青年があった。同僚の反対を押し切って捕虜に親切だった。そのときの捕虜の一人が経済科学局員で東京に在勤し、捕虜を兄弟の如く遇し、物をひそかに与え、ひそかに労わった真崎中尉が、真崎甚三郎大将の次男であると聞いたのを忘れず、東京で再会できるかも知れずと、父真崎の家を探したが、折しも巣鴨を出獄したあとで、世を忍ぶのか、その住所が知れなかった。そこで勤務先を同じくする宮田芳子女史に頼んだ。しかし女史からも知るを得なかった。たまたま定岡克己といって警察庁第三課勤務の警察官で、女史に媒酌してもらった人が訪れてきたので、女史は尋ねたが定岡もそのときは知らなかった。だが、真崎に礼がいいたいというアメリカ人があると知ると、お手の物だからだろうか、忽ち調べてわかり、女史に知らせた。女史はそれをアメリカ人に告げた。真崎甚三郎は往訪の定岡にこういったという。「私が巣鴨に拘禁されているときも、一米人が面会にきて、そのようなことを語り礼を述べて行かれた。芳雄は終戦後生死不明なので、仮に位牌をつくり、ときどき香を焚いて手向けている。私は子供達に、博愛の道を説いてきたが、芳雄がその実行をしてくれたのだろう。そうであったら国民に対する私のそれが心ばかりのお礼にでもなれば有難いが」と。》(田崎末松『真崎甚三郎』昭52 367-368p)その米人捕虜が、『天皇の陰謀』の著者バーガミニだった。田崎の著にバーガミニの言葉がある。《「私たちの恩人真崎二世は、後に一米軍機が日本軍トラック部隊を地上掃射した際に、殺された。そのトラック部隊は、マニラ西方の収容所に抑留されていた六千人の西洋人の命の綱である食糧を運んできたばかりのところだった。 収容所は、一九四五年のルソン島へのアメリカ軍の最初の上陸に引き続く混乱のなかで、食糧の供給を絶たれていたのだった。後年、真崎家の歴史を知って私は、彼らが日本が不正な戦争をするのを押しとどめようと最後まで反対を続けた勇気ある男たちであったことに、心を打たれた。」》(367p)真崎芳雄との出会いが、大著『天皇の陰謀』に取り組む動機になったという。

真崎秀樹著.jpg長男の秀樹は外交官となって、昭和天皇の通訳を延べ25年間務めた。その父真崎甚三郎は昭和天皇にどう見られていたか。《昭和一九年六月、近衛文麿元首相は敗色濃い東条内閣を抑えるため、真崎甚三郎大将の登用を木戸幸一内大臣に意見したところ、昭和天皇から真崎への疑念が表明された。真崎は「……聖天子ニモ何等カノ人違ヒ若ハ思ヒ違ヒアラセラルルコトト判断セラル」と己を国家社会主義者とみなす昭和天皇の認識を否定した。「真崎は二・二六事件の関係者」という風聞から、陛下は決して真崎を許さなかったと言われている。》(天童竺丸「逆臣はあらず」)では、昭和天皇は、「許せない」親の子を25年間も側に置いたのか。『真崎甚三郎』の著者田崎末松はいう。《「聡明な昭和天皇は敗戦から三十年の経過のあいだに、あの動乱の昭和史を彩ったもろもろの事件、そしてその事件のなかに点滅していった群像のすべてについての真相、もちろん世上の取沙汰でなく、歴史的真実をあやまりなく把握されて、あたらしく認識され、整理されたのではなかろうか」》(384p)。

最後に、『昭和史の証言ー真崎甚三郎・人その思想ー』発刊の承諾を乞う著者山口富永の手紙に対する真崎秀樹の返信を載せて締めとします。

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 先生(山口冨永)や、岩淵(辰雄)、長野(朗)、清水(謙一郎)の三先生方のように亡父甚三郎を正しく評価して下さる方のおいでになることは、私共遺族にとりまして比の上もなく有難いことでありますが、このような個人的感情は別と致しまして、歴史上の事実を正しく記録するという国民的立場からも誠に有意義なことと存じます。(中略)  もとより亡父は他人に理解してもらおうとか世間の評判を良くしようというようなことは毛頭考えなかった人間で、若しそういう考えがありましたらも少し上手な世渡りをしたかも知れません。代々木の刑務所におりました頃、私は屡々面会に参りましたが私も父に対し
「誰も分って呉れなくてもいいではありませんか」と申し、父も
「分らんでもええ」と申しておりました。(後略)

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