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山口富永著『昭和史の証言ー真崎甚三郎・人その思想ー』を読む(4) [本]

妙にひっかかる節があった。「激動時をゆく真崎の思想と信念」の章の中、「追放解除に反対した次田大三郎」の節である。この節全文を写す。(185-187p)

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 二・二六事件のあと、広田内閣 のとき、軍部大臣の任用制度を現役に狭めてしまったことが東条軍政権樹立への法的根拠となったことは、さきにも書いた。この軍部大臣の現役制の法案が通ったとき、法制局長官の次田大三郎は
「これで真崎が再び軍に復帰してくることはない」といって飛び上って喜んだというはなしは有名な話である。この次田は吉田内閣によって任命された、追放をとりあつかう委員であった。
 吉田茂は(岩淵辰雄氏らの同志として)東条軍政権打倒に力めて、弾圧された人であり、終戦直前憲兵隊に捕われた人であるのに、何故この次田を追放関係の委員にしたのか、筆者にはいまもってわかりかねることである。広田弘毅は、総理大臣としてこの法案を通したその事によって死刑になっているのである。このことを思えば、次田も当然戦犯となるべき人ではあるまいか。
 ともかく、この次田大三郎は最後まで真崎甚三郎の追放解除には、頑として反対した。
 極東委員会では、検事は、真崎は戦犯事項のいずれにも触れず従って戦犯にあらず、とワシントンに報告しているのに、どうしても、日本の委員会では解かなかった。真崎の遺稿にあるように、真崎は、追放に関する法律が失効して、自然解除となるまで解かれなかったのである。これはひどいことだ。
 真崎大将も、この次田大三郎も、更にまた、吉田茂もみな故人となったが、筆者はこのことを書きおとすわけにはいかぬのである。
 ついでにいま一つ真崎大将がほんとに唯ひとこと筆者に言ったことがある。
 それは、講和条約に吉田茂が出発するとき、 軍事上の相談を誰れにしたのか、しなかったのか知らぬが、唯一人の軍事願問も帯同せずに行って、日米安保条約に調印してきたときのことだった。
 真崎大将はただ一度
「吉田も、ひとことぐらい私に相談してもよいと思うにね」
といったことがあった。
 ドイツは第一次大戦で敗戦したが、五万人だけ軍隊をゆるされた。そこでこの五万人を全部幹部として養成し、たちまち軍隊をつくったことがあるが、筆者は、あのころの自衛隊のつくり方は、 思想戦を重点とする観点から見たとき甚だ危険だと思ったことがある。ドイツの例にならって、思想を一にする高級幹部を中心に、徐々に中堅幹部から下級幹部を集め、然る後に兵隊を募集すべきであると、これは今も思っている。
 革命の定石が、軍を思想的に破壊すること、司法権の威信を失墜せしむること、教育を混乱せしむることの三条件にありとするならば、軍隊こそ、その国の運命を左右するものである。
 終戦後、新憲法が制定されて、日本は一切の武力を放棄させられたとき、真崎大将は
「必要は、日本を武装する」
ということを言われた。スイスの中立国といえども常備八十万の軍を擁し、国民皆兵である所以であろう。
 ともあれ、吉田全権は戦後の日本の安全保障問題について、真崎大将には一言も相談しなかったようだ。 のみならず、追放委員に次田大三郎を任命している。
 このような動きをみると、吉田は構想なき官僚にすぎぬ、と言われても仕方あるまい。真接これとは何ら関係ないと思うが、当時、たまたま真崎大将から筆者に寄せられた大将のハガキを附記しておく。
「拝復なげかはしき世相にて差当り何とも致し方無之侯政治家とは嘘つきの上手と言う意味に侯追放問題もいよいよ出ていよいよ妙に候、市ヶ谷裁判の検事よりワシントン極東委員会へ真崎は戦犯の何れの条項にも触れず即ち戦犯に該当せずと判決せられあるに日本にては戦犯として扱われ居候、頗る滑稽に侯」(二十六年)
”政治家とは嘘つきの上手という意に候”というこの一言はいつも筆者のロを衝いて出る言葉となったまま、戦後二十余年すぎてしまった。
 日本は、日本の政治は、果してこれでよいのだろうかと思いつつ。

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「次田大三郎」(1883-1960)を検索したら、「野坂参三(1892-1893)は義弟」とあった。次田と野坂、夫人同士が姉妹という関係。野坂は《コミンテルン(共産主義インターナショナル)日本代表、日本共産党の第一書記と議長を経て、同党名誉議長を務めた。かつてソ連のスパイであったことが最晩年に発覚し、日本共産党から除名処分を受けた 》という人物である。なぜ真崎は排撃されねばならなかったかの深層がのぞき見える。

もうひとり吉田茂、「吉田も、ひとことぐらい私に相談してもよいと思うにね」》。真崎と吉田の関係については、《統制派である東條英機首相が国家社会主義体制を構築していく中、反主流派の面々は真崎の元に集まってきた。その代表例が吉田茂で、吉田は対米開戦直後から「英米ト和平ノ手ヲ打ツベキ方針」を真崎に伝達している。真崎本人も、日中戦争と並行して対米戦を遂行することとなった現実を危ぶんでいた。》とある。(ウィキペディア)「なんとか日米戦争を避けようと共に行動した同志だったのに」との思いが込められた真崎の言葉だった。その吉田、こともあろうに追放委員に次田大三郎を任命している。》吉田に対する不信とともに、「戦後日本も、真崎を素通りして今に至った」との著者の無念が伝わって結びの言葉となる。日本は、日本の政治は、果してこれでよいのだろうか》(つづく)

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