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ボツになった雲井龍雄の年賀状 [雲井龍雄]

雲井龍雄年賀状.jpg今年は、雲井龍雄没後150年。正確にいうと、斬首された明治3年12月28日は、西暦でいうと1871年2月17日。だから令和2年(2020)は、雲井龍雄命日を明治3年で考えると150周年だが、西暦で考えると令和3年(2021)が150周年。この際ややこしいことは言わずに令和2年と3年両方「没後150年」で雲井龍雄を偲ぶ2年間にすればいい。そんなわけで今年の年賀状はなんとなく雲井龍雄と決めて、12月24日の晩発注した。ただ、つくりつつ、新年を寿ぐ年賀状に「辞世」とはいかがなものかとのひっかかりはあった。25日の朝目覚めて、この日「年代記」翻刻版が届くことに気づき、急に思い立って原稿差し替えの連絡をした。500円の差し替え手数料だけで大丈夫ということで、雲井龍雄はボツになった。未練もあるのでここに載せておくことにします。

《 死して死を畏れず 生きて生を偸(ぬす)まず 男児の大節 光日と争う 道苟(いやしく)も直くば 鼎烹(ていほう)を憚(はばか)らず 渺然たる一身 万里の長城  龍雄拝 

 雲井龍雄27歳、小塚原の露と消えて150年、その詩魂、今まさに甦らんとす。
 「心配しなくてもいい、間もなく迎えるであろう死を怖れてはいないし、偽って生きながらえようとする気は全く持ってはいない。男の真直ぐな生き様が発する輝きは、太陽の輝きにも匹敵する。おのれの歩む道が真っ当なものなら、たとえ釜茹(ゆ)でになろうともかまわない。いずれとるに足らない身ではあっても、心は果てしない。勢いを以てさらに、身をも勇躍せしめるべし。狭い日本に留まるのではない、万里の長城を思うがいい。」 
 この詩は牢外に立つ弟分曽根俊虎に向けて詠ぜられた。(尾崎周道) この詩を享けて曽根は、興亜主義を唱え西洋のアジア進出に抗する先駆となった。曽根は、孫文と宮崎滔天を引き合わせることにもなる。(置賜発アジア主義 )》 

雲井龍雄座談会.jpg雲井龍雄といえば、12月6日に米沢日報新年号掲載のための「雲井龍雄座談会」によばれて語ってきたのだが、その後校正を経て刷り上がった元旦号が届いた。見開き2ページ、結構読み応えがあると思う。テーマは「幕末の志士雲井龍雄をどう評価し、何を伝えていくか」〜2021年、雲井龍雄没後150周年、銅像建立を目指して〜。メンバーは、NPO 法人雲井龍雄頭彰会会長屋代久氏、福島大学人間発達文化学類教授新井浩氏、歴史探訪家・米沢鷹山大学市民教授竹田昭弘氏と私で、司会が米沢日報デジタル社長成澤礼夫氏。2時間たっぷり、みんな熱く語った。私の発言部分、抜き出しておきます。(米沢日報デジタル社 http://www.yonezawa-np.jp/html/feature/2020-3%20kumoi%20tatsuo/round-table%20talk%20on%20kumoi%20tatsuo.html

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私は昭和22年生まれの72歳です。・・・10年故郷を離れて戻ってから、徐々に地元の歴史のすごさに気付かされるようになり、それをなんとか次代に伝えなければという思いで、いろいろ活動しています。一昨年、地元商店街での10年来の活動成果を『宮内よもやま歴史絵巻』にまとめ、好評いただいています。今は、「吉野石膏コレクション」の超優良企業吉野石膏株式会社を今日あらしめた、宮内生まれの須藤永次について、そのすごさを知って欲しくていろんな場で語っているところです。
 新たに知ったことや調べたことを、「移ろうままに」というブログに記録しています。

雲井龍雄は昔から気になる人物で、安藤英男氏の著作『新稿雲井龍雄全伝』を手元に置いていましたが、本気で読んではいませんでした。当時、司馬遼太郎的薩長中心史観が優勢で、奥羽越列藩同盟は無視されてきた感がありました。私は東北に住む者として、敗者の視点も大事ではないかと考えました、雲井龍雄はそのシンボル的存在としてイメージしていたと思います。
 平成15年南陽市宮内で、歴史研究家の岡田幹彦先生に鷹山公について語っていただく講演会を開催して好評を得ました。その勢いで、こんどは雲井龍雄について語っていただきたいとお願いして、翌年実現したのでした。岡田先生も雲井龍雄については詳しくは知らないということだったので、「これで勉強してください」と言って、手元の「雲井龍雄全伝』を差し上げました。(後に別途購入することになりました。)
 講演会資料作成のために龍雄関連書に目を通す中で、村上一郎氏の「雲井龍雄の詩魂と反骨」(『ドキュメント日本人3 反逆者』所収 昭和43年)を読んだのが、私にとっての雲井龍雄との本当の意味での出会いになりました。
 村上氏はその中で言います。「雲井龍雄は、漢詩というものがもう日本の青少年教育から追放されてしまった今日の若者たちには、縁遠い人になっている。(中略)わたしは心から、この忘却、この抹殺を、雲井龍雄の渺(びょう)たる一身をこの世から消し去った明治社会の酷薄以上に罪ふかいものと考える。これは日本の万世に伝うべき詩心を、残忍に葬ってしまう教育の頽廃(たいはい)、文化の堕落の一つのあらわれであると信ずるのだ。雲井龍雄は、藤田東湖や頼山陽とともに、今日日本の近代詩史の序曲の上に復活せねばならぬ大事な一人である。(中略)そしてその詩心は、反逆不屈の一生と一体である。ここに日本東国の志硬いおぐらくも勁(つよ)い情念の一典型が塑像のごとく立っている観がある。」この文章に心動かされ、雲井龍雄講演会の表題を『詩魂、甦れ!』としたのでした。ちょうど詩吟を始めたころでもありました。

③先ほど、謙信公以来の「第一義」の精神が雲井龍雄によって具現化されたという竹田さんのお考えに、なるほどと思いました。それにつけ加えれば、雲井龍雄には鷹山公の精神も流れ込んでいます。内村鑑三は、『代表的日本人』の上杉鷹山の章で、「徳がありさえすれば、制度は助けになるどころか、むしろ妨げになるのだ。・・・代議制は改善された警察機構のようなものだ。ごろつきやならず者はそれで充分に抑えられるが、警察官がどんなに大勢集まっても、一人の聖人、一人の英雄に代わることはできない・・・本質において、国は大きな家族だった。・・・封建制が完璧な形をとれば、これ以上理想的な政治形態はない」と言っています。内村の考えは大著『鷹山公偉蹟録』全21巻を著した甘糟継成の「君民同治」論から得ています。徳ある君主を得た封建制に信を置くという感覚は、謙信公以来鷹山公を経て龍雄に流れ込んいるはずです。龍雄の師安井息軒は、高鍋藩の隣藩飫肥藩の出、若い時鷹山公の事績を慕って米沢を訪ねています。龍雄重用の背景に鷹山公がおられたように思えます。
 皮肉なことに龍雄の詩は、民意の絶対を主張する自由民権運動の中で広く愛吟されることになります。龍雄とともに幕末の激動を駆け抜けた宮島誠一郎が自由民権に対して批判的であったように、龍雄も生きていたら、自由民権に対して距離を置いたはずです。
 内村鑑三は明治30年の『萬朝報』に、「もし雲井龍雄をして今日尚あらしめば、彼等は何の面(どのつら)ありてかこの清士に対するを得ん」という明治藩閥政府批判の文章を残していますが、明治政府にとって雲井龍雄は、死して尚、戦慄すべき存在だったことがうかがえます。なお生きてをや、です。

④雲井龍雄についてぜひ言っておきたいのは、尾崎周道著『志士・詩人 雲井龍雄』の最後の場面です。尾崎説によると、小伝馬町の牢で詠んだ「辞世」は、牢外に居る曽根俊虎に聞かせるための詩であったというのです。「・・・渺然たる一身 万里の長城」。俊虎は龍雄の意を受けて、宮島誠一郎とも意を通じつつ、支那へアジアへと勇躍することになります。日本で最初のアジア主義機関興亜社を設立、宮崎滔天と孫文を引き合わせる役割を果たしたのが俊虎でした。その源流に雲井龍雄の念い、志があるのです。
 「置賜発アジア主義」は、大東亜戦争に流れ込む「侵略的アジア主義」とは明確に一線を画します。それぞれの民族の自主独立を重視するアジア主義です。その流れの中に、宮島誠一郎の長男宮島大八(詠士)がいます。そのほか、河上清、遠藤三郎、平貞蔵、大井魁といった面々も含めて「置賜発アジア主義」と題する論考を、昨年、御堀端史蹟保存会の『懐風』44号にを載せていただいたところでした。

⑤宮坂考古館に雲井龍雄のカッパが展示されていたのを見たことがあります。雲井龍雄という人物のリアリティが伝わって感激しました。新井先生もぜひご覧になってみると制作の参考になるかもしれません。
 数年前、南陽市の「白鷹山に『伝国の辞』碑をつくる会」で白鷹山山頂に鷹山公の石碑を建立しました。募金目標は250万円だったのですが、130万円上回る寄付が集まりました。除幕式へのケネディ大使ご出席は叶いませんでしたが、大使からのメッセージを碑に刻み込むことができました。鷹山公のなせる業(わざ)です。
 雲井龍雄ファンも全国にいます。より知ってもらうことでどんどん増えるはずです。 

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