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「年代記」を書いた人 [わが家史]

奥さんとキャンピングカーで来てくれたこともある学生時代の友人から、「年代記」翻刻版、完成のコメント欄に、「年代記を書いたのは何代前の先祖ですか?」との質問があったので(私が作った)系図を引っ張り出してみた。

「年代記」を書き始めたのが文政13年(1830)。この時生存する歴代当主は、栄次郎58歳(1835没)、丹弥32歳(1874没)、栄蔵2歳(1870没)、この3人。栄次郎は先代の父栄七を早く亡くし、16歳で家督を継いでいる。丹弥は向かいの山崎與左衛門から栄次郎の長女に婿に入るも、その長女は文政10年(1827)に24歳で亡くなったため四女キリを後添えとする。キリは安政4年(1857)46歳で没とあるから、長女が亡くなった時16歳。次女、三女はもう嫁いでいたのだろう。文政13年には丹弥はまだ若く、書き始めたのは栄次郎と考えてあらためて「年代記」を繙くと、天保6年4月まで年ごとの記述がつづく。栄次郎が亡くなるのはその翌月の5月20日、63歳だった。その後は丹弥による記載か。丹弥は「精神最モ活発ニテ強記博識ノ人也」(「髙岡氏累伝記」)とのことで、雑学的記述も多い。年ごとの記述の再開は天保15年(1844)から明治40年(1907)10月まで。栄次郎の孫で丹弥の子栄四郎(号 吉信)か。栄四郎没が明治40年10月26日、74歳だった。亡くなる直前まで書き続けたことになる。ただ、明治3年(1870)に42歳で亡くなった栄四郎の兄栄蔵がおり、丹弥の次の代。栄蔵には4人の子供がいて長男次助の長女が私の祖母キリ。丹弥を婿に迎えた栄次郎の四女キリの名にあやかっての命名と聞いたことがある。宝珠院釋尼妙朗大姉の戒名からして明るい人柄だったのだろうか。栄蔵と栄四郎兄弟二つの流れが、私の祖父信太郎と祖母キリが一緒になることで合流した。

私からみると、栄四郎は私の祖父の祖父、書き始めた栄次郎は栄四郎の祖父、つまり栄次郎は私の祖父の祖父の祖父です。ちなみに栄四郎の妹エンは父丹弥の実家山崎與左衛門に嫁いでおり、吉野石膏(株)須藤永次を支えた賢夫人須藤るい(旧姓山崎)はその孫になります。私の祖父信太郎は、るいとは再従兄妹(はとこ)で同級生です。わが家も山崎家も、共に染物業を営んでいました。

「年代記」が、それを書き継いだ先祖の名と結びつくことで、ぐんと親しくなりました。公人くんのおかげです。感謝。

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